あまおう苺モンブランの味

201712/14
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29歳の誕生日を迎えました。
Facebookのタイムラインにメッセージをお送りいただいた7名の皆さま、本当にありがとうございます。

 

誕生日はもちろん「ああ、きょうは特別な日だ」と目を覚ますわけですが、PCの起動画面と何通かの企業ダイレクトメールから「森田さま! 誕生日おめでとうございます」とお声かけいただいた以外にはまったく通常の一日、仕事をしておりまして、さすがにこれは寂しいと感じ帰路の四ツ谷駅近くでカフェに飛び込み「あまおう苺モンブラン」を指さして食べているという状況なので、人からのお祝いには感謝の念に堪えません。

 

 

こうしてつらつらと思うに、自分は多くの若者の例に漏れずロックな生き方に憧れて27歳まで生きられたらいいと(“The 27 Club”)腹をくくって後先考えずやってきましたが、どうやら本当の意味で覚悟を決めねばならないようです。自分は「夭折」という言葉をゆうに通り越して生きてしまう。みっともなくとも憎いほどに生命力がみなぎっている。

 

であるならば、この先は憎らしいほどに長く生きてやろうと思います。顧みれば曾祖母は96歳まで生き、祖父も93歳の生涯を全うしました。年明けて母方の祖父は88歳にもなる。両親は50代でまだまだ健在。どうみたって幸福なことに健やかな家系に位置づけられる。バカでもアホでも呆れるほどのエネルギーをもって生き延びるふてぶてしさは、敬愛する今村昌平監督のモチーフでもあったなと、最近気づくようになりました。

 

でも“憎らしい”ほどに長生きするつもりでも‟卑しく”なったら終わりだなとこれまた思う。人として卑しくなったらさっさと死んだ方がいい。それは言い過ぎかもしれませんが、とても恥ずかしいことに感じるので、指摘してくれる友を後生大事にしたいのです。

 

もともと自分の数少ない友人には感謝せざるを得ませんが、30前後になるとそれぞれの生活というのが目に見えて変わり始め、私のように独り身で仕事のみを愛し、さして食にはこだわらずインスタ映えするスポットも意識しない日々を送っていると、誕生日の仕事帰りにカフェ・ド・クリエに駆け込んであまおう苺モンブランを頬張ることになりますし、「いいね」の数も年々減ってきます。これはもう摂理です。赤ちゃん、肉バル、TDL、いずれも写す機会に恵まれない暮らしでは、SNSに「言葉」そのものを綴るしかありません。言葉だけが友達と、格好つけるようでもなんでもなく口にできるようになってしまったのです。

 

そんな我が畏友である「言葉」との付き合い方を学んだのは、大学2年生の頃からお世話になっている師のスタイルからでした。(史的唯物論者といったらわかってしまうでしょうか。)数えればもう10年ほど――人生の1/3!――指導を賜っていますが、一つは「瞬発力は関係ない。書き続けることこそ重要」というもので、もう一つは「批評は‟この快楽を他の人にも味わってもらいたい”思いに基づく」というもの。

 

以来、先ほどの例に即して言えば「私の友達であるところの言葉が、読む人にとっても友達のように映ってほしい」ことを意識し、‟私の友達”は決してスタンドのように遣わして相手を叩きのめすものでもないし、ただレベルアップを追求するものでもないと思っています。読み手がいなければ始まらない話で、「私とあなた(我ー汝)」の間に埋もれている何かを「救済」することこそ、楽しいし、書き続ける動機を保つことができています。

 

哲学者のベンヤミンは「夜のなかを歩みとおすときに助けになるのは橋でも翼でもなく、友の足音だ。」というような言葉を残しておりますが、その友は言葉であってもいいわけです。少なくとも自分には、映像でも舞台でも音楽でもなく言葉が一番使いやすいフラッシュライトなのだとわかってきた29歳前夜でありました。

 

平成とともに歩んで満29年。それも近く別れるときが来るようですが、背番号「S63」を負って先の先の時代まで見てみたい。素直にそう思います。来年もまたどうぞよろしくお願いいたします。あまおう苺モンブランはコーヒーともよく合いとても美味しかったです。

2017年12月14日

 

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