第36回『恋とボルバキア』を鑑賞して

201712/10

 

ポレポレ東中野で小野さやか監督の新作ドキュメンタリー『恋とボルバキア』を鑑賞した。「ボルバキア」とは宿主を性転換させる共生バクテリアの一種と説明され、本作はいわゆる「LGBT映画」の範疇に入るようにみえる。

 

日本映画学校の卒業制作にして劇場デビューを飾った前作『アヒルの子』(2010)では「家族の解体」が物語の推進軸として働いていただけに、今回の「共生者との新たな関係の構築」をもって真に家族の「脱-構築」が果たされたとみた。セルフドキュメンタリーから始まった挑戦的で感動的な旅路、バラードが続いている。

 

『アヒルの子』では兄と、姉と、母と、父と、絶えず泣きながら対峙してきた小野監督だったが、本作では代わりに各々のカップル、恋人たちが胸中を打ち明けては涙を流す。文字通りスクリーン一杯に浮かび上がる幾条もの涙がラストに向かって集うとき、‟LGBT”というカテゴリーを遥かに超えた深い人間愛が私たちを包み込む。

 

もともと人間などある枠に収まる生物ではない。必要なことは大方足りていない一方で、余計なことを多く嗜む。細胞単位でみれば数カ月で入れ替わるし、自己同一性は意識の所産に過ぎない。あるいは昨日まではこうだったから、明日もこうであろうとする惰性。別に昨日と明日のあいだに約束が交わされているわけではない。そして実際に、私たちは目に見えないスピードでじわじわと変化している。10年前の自分と今日の自分は同じであると言い切れる人の方が“少数派”であろう。

 

『恋とボルバキア』がユニークで「LGBT映画」という括りから一線を画しているのは、ドキュメンタリーならではの時間をかけて粘っこく追う手法でセクシャル・マイノリティーそのものの変化を記録していることだ。わかりやすく言うと、私たちは例えば「男から女へ」なったことを捉えてよく「変化」とみなしてしまうが、長期的にみれば変化は微小な差異をもって続いているのであり、ここが区切りということはない。その微細な変化(感情の揺れ)をカメラは逃さずにとらえて、構成の重きもそこに置かれている。繰り返しになるがこれは「LGBT」に限ったことではなく全ての人間という生物に当てはまることだ。

 

人間はその時々で移ろいゆくもの。だからこそ、ある人間とある人間との心が互いに求め合う状態になることは奇跡的に橋が架かった状況で、私たちは無意識にもその邂逅に高揚し、落ち着きを失い、失敗もするがそれ以上に愛に満たされるのだと思う。

 

本作で教わったことは「自己認識」は「自己規定」ではないということ、つまり心には‟男性”のときもあるし‟女性”のときもあり、そして‟女性のとき”の人と‟女性のとき”の人とが素敵なタイミングで出会いうまくいくこともあれば、今は‟男性のとき”の人との方が呼応することもある。だから、トランスジェンダー(または男の娘)の女性に恋するレズビアンの人がいてもおかしくはないし、そのレズビアンの人が数年後に子供を欲しがっていても全く不思議ではない。

 

映画内では車中からの映像が幾度となく映し出される。定まることなくある地点からある地点へと移動する様子を撮影するカメラの視点は、そのまま作品内容つまりは人間の本質とも合致するだろう。

 

性を転換させてしまう‟共生バクテリア”とは愛し合う二人であり、すなわち‟恋”そのものであった。

 

▼映画『恋とボルバキア』公式サイト
http://koi-wol.com/