「文体」と言われるものについて(その4)

201704/01
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 出土した木簡の字数がすべて140字以内に収められていて、そこには無記名で役人の愚痴がつぶやかれていたりと、Twitterの起源は奈良時代に!? と思わせる記事が東京新聞に載っていた。今回もまた途中になってハッと日付を確認する。「来年こそは読む前に気づく」と誓っては、いつも特報部の紙面を丸ごと使った贅沢な遊びに乗せられてしまうのだ。だって、「教科書検定 パン屋を和菓子屋に」とか「中学武道に銃剣道を追加」とかいう記事を毎日のように目にしていたら、4月1日が特別な日だなんでことを忘れてしまうって。

 

今やポスト真実、オルタナ・ファクトの時代と喧伝されて久しくなったが、「息を吐くように嘘をつく」のがまかり通っている情況では、嘘を笑って楽しむ余裕などない。ここで言う嘘とは、人間の精神活動の自由を形成するものではなく、むしろそれを萎縮させる方向に働きかける力の構造、権力としての嘘である。服従という機能をぶら下げて、権威主義的パーソナリティを助長し、国家のイデオロギー諸装置にも浸透、次世代を巻き込み再生産していく個人の手に負えない事実の修正だ。

 

 「嘘でもなんでも言ったもの勝ち」という空気の中で、それでも言葉を信じて戦う方法を年明けからずっと考えている。そういう言葉は決してTwitterのトレンドには入らないし、爆弾級に「事実」を詰め込んでも裸の王様は傷つかない。逆にその意向を忖度して事実をねつ造する方が、出世街道を歩めるかもしれない。でも、そっちじゃないよと、聞かれたら必ず答えたい。また動物化して「たーのしー」ばかりのフレンズと化すこと、言葉のないパークへの入園もあまり勧めたくはない。(※あのアニメは好きです。)

 

学問は真善美を絶えず批判してゆく大変な運動だが、その過程でだいぶ想像力も鍛えられる。あらゆる芸術活動は嘘を生み出す思考領域を応用しているとも言え、映画ももちろん嘘の一つの枠組みを使っている。卒業式の祝辞で学長が自らの映画体験を振り返って述べたことには、「映画を観ることによって自分たちが生きている世界の“誤解”を知った」と。つまりある嘘によって「今いる嘘」の外へ行くことができた。

 

示唆に富んだ話だと思う。「嘘」を嘘によって解体してゆく作業、芸術に携わろうとする者ならこれを終わりなく繰り返してゆくこと、またそれを可能にする知的・物理的な体力を身につけることが、この時代に「言葉」を見つけるための手がかりとなるのだろう。

 

初出:4/1 Facebookの投稿より

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