「文体」と言われるものについて(その3)

201701/26
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 センター試験の結果をもって、センター利用入試を受験した僕は、担任の先生が「このあたりまで行ける」と勧めた大学に合格し、一度もそのキャンパスに足を踏み入れることなく入学が決まっていった。願書を郵送するだけで受験が終わるのは便利ではあったが、たかだか一か月ほど楽をするのと引き換えにその後の四年間を苦しむのでは、やはり割に合わない。入ってからしたいことを考えるのは大変なことだと、僕は「五年間」そこで過ごすことによって身をもって知った。
 

男子校だったこともあいまって、女性を視界にとらえると臨戦態勢になるきらいがあり、電撃的にアタックし返す刀で勉学に注力する二正面作戦(シカミミ・プラン)を実行。一度も勝利することのないままただこの身は焦土と化し、草木の萌ゆる入学早々にキャンパスから出奔してしまう。大学デビューする気概もなく、おずおずと周辺をうろついて、ようやく人目を気にせず時間をつぶせる場所に流れ着いた。そこはかの名画座で、田舎には映画館さえなかったから、「二本も観れて一本より安い」映画館など夢のようで、めでたく僕は夢の住人となった。単位はボロボロと落っこちていったが、それが種となって色んな縁が芽吹き、今もこうして生きていられる。

 

 しかし在学中は生きた心地がせず、親には成績が届くものだからたくさんの言い訳を考える日々でもあった。そこの火蓋は落としてはいけない。たとえば「この“H”って何?」と聞かれて「Aの上だよ」答えていた。本当は「試験未受験」である。

 

親との攻防はそれでやり過ごせても、いつかは単位を取らなくては卒業できなくなる。打ち切りになった奨学金も襟を正して再開の申請をしなくては映画館にも通えない。まずは履修を先延ばしにしていた必修科目から、一年生が学ぶ「英語」から顔を出すことにした。週2コマ4単位の集中型レッスンである。

 

 下級生に交じり、努めて元気に返事をし、最初の自己紹介などもできるだけフレッシュにしたつもりだったが、どうも気を遣われているようだった。たぶん「僕は革命に興味があります。共産主義を勉強しています。友達になりましょう。」とたどたどしい英語で言ったのがまずかったのかもしれない。ただ先生だけが“very nice! ”と顔をほころばせ、オバマについてどう思う? と会話をつないできた。バラク・オバマが第44代米国大統領に就任して間もなく、まだ「チェンジ」という言葉が人口に膾炙していた頃だった。

 

先生はオバマの大統領就任演説を引き合いにしてそれまでのアメリカ批判とこれからの展望を熱っぽく語り、とても美しいスピーチだからこの授業の教科書にしますと、テキストを配って回った。どのページを開いても国民にそして世界に希望を訴えかけるオバマ前大統領の姿があった。

 

それから毎週3時間、みっちりとオバマ・スピーチの文体と理念とに向き合う日々が続いた。授業では飽き足らずに先生を誘い自主ゼミを開催し、日本の政治までを広く議題に挙げてディスカッションも行った。授業が進むにつれて何人かの下級生たちの姿が見えなくなっていった。思想信条を異にしていた可能性もある。自分も「トランプ語録集」など差し出されていたら、尊厳にかけて授業をボイコットしていただろう。だがオバマの演説はそういったものを超えて読ませる力があり、書き手の立場となった場合に参考となる表現の宝庫でもあった。

 

 良い文章(言葉)と悪い文章(言葉)の違いは、テキストになるか否かといったように自然にわかり、その基準もしかとあるものだと思い込んできたが、今日「良い」と支持を集めている政治的な言動や、あっという間に広がりを見せるネット上の言説を眺めると、その境界はとっくに融解していて混沌たる状態になっていることがわかる。つまり「はじめに言葉ありき」と言うときの「ロゴス」が危機に瀕している。

 

そんな時代に「良い文章」を求めその「良さ」で勝負をかけるなど困難以外のなにものでもないが、むしろ言葉を取り巻く不自由さを拠り所にして進むことはできないだろうか。まずなにに拘束されているのかを認識することから始め、自由の輪郭をなぞってみたい。その一つは前にも述べたテクノロジー的な縛りであった。その制約(あるいは拡張)を受けてものを書くとき、または考えるとき、哲学者であり批評家のロラン・バルトの考察を援用したい。彼は人間の言語活動を次の三つの層にわける。

 

 第一の層が「ラング(langue)」で、これはいわゆる母語のこと。僕たちは誰でも日本語や英語といった言語に外側から規制されている。第二の層が「スティル」(style)」で、これは個人の嗜好や感覚による避けがたい偏差であり、言語活動を内側から規制している。そして第三の層に挙げられているのが「エクリチュール(écriture)」であり、この「集団により規定された言葉の使い方」については自覚することである程度の選択が許される……。

 

 という話を大学で聞いたことがあります。(という逃げは許されないか。)引き続き、恥を忍んで書き連ねてゆきますので、お付き合いくださいませ!

 

 

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