「文体」と言われるものについて(その2)

201701/16
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 高校3年生の頃の、すなわち十年前の今日の学年通信が出てきて、当然紙面はセンター試験の話題で埋め尽くされていた。いまはAO入試や推薦入試などで年が明ける前に進学先が決まっている高校生が多く、特大フォントで打たれた「勝負の冬」といった表記を目にすると懐かしささえ感じる。それは教師にとっても尋常ならざる季節だったようで、センター試験会場前に早朝6時から待機し、生徒たちの到着を待っていたエピソードが記されていた。ある種の高校に特有の精神論(合格ハチマキを巻いたり、強化合宿をしたり)かと思いきや、時計を忘れてきた生徒に自らの腕時計を差し出して送り出していたとのこと。その教師たちの名前が“今年の犠牲者”として面白おかしく綴られていた。

 

現行のセンター試験は2020年にいったん廃止を迎える。僕は、それでいいと思う。点だけ稼いでそれに見合う学校に行って、入ってからしたいことを見つけるなんて本末転倒。高校の3年間、あるいはもっと前から、ボーっとじっくり道草食って、「なんかこの道いいなあ」と見上げた先に、次の課程の門があればいい。年始に高校の同級生と十年ぶりに会ったが、うちには美術の授業がなかったのにもかかわらず、一人は美術の教員免許を保有した絵描きに、一人は印刷会社でデザインの仕事をしていた。「高校で何を学んだんだろうね」と批判織り交ぜ笑いあったが、そういうものである。好奇心に勝る勉学の道はない。

 

高校では試験で50点取ったやつよりも、80点、90点とったやつのほうが「すごい」と言われる。一方で、字がうまい、歌がうまい、絵がうまいといった生徒たちは、同じような意味合いで「すごい」とは言われないものだ。どちらも「自分には届かないレベルのスキルを会得している」はずなのに、そこには目に見えない分断がある。そしてその分断を無意識にも強いているのが、画一的なのに規模が広大になりすぎてしまった「共通試験」というものだろう。みな等しく「自分にはできないこと」を尊敬しあえるようになること、これが「みんな違ってみんないい」が言い表す世界のように見える。社会に出れば、数学ができるやつと同じくらいに(あるいはそれ以上に)絵が描けるやつが重宝されることなど、いくらでもあるのだから。

 

 それで平成19年のセンター試験の成績通知書も引っ張り出して中をのぞいてみると、まあ、国語の成績がよろしくない。十年後の自分は、本を読むこともなにか書いてみることもとても好きなのに、その萌芽がまったく見受けられない。ここから前に書いたことのつづきとなるが(かろうじてテーマを覚えていた)、それは「国語ができなかった」というよりも、「家に本がなかった」「ものを書くPCがなかった」環境を示しているに過ぎず、自分との相性の良いツールにアクセスさえできれば、人の趣味嗜好はいくらでも変化を遂げていく。

 

殊に「文章を書く」ことについては、世の“出来損ない”をかなりの数救い出したと思っている。原稿用紙からパソコンへの移行は作業環境の改善のみならず、それまで割いていた多くの労力からわれわれを解放してくれた。例えば辞書。小学校から厚い・重い・面倒くさいの三重苦を背負わされてきたが、いまはスペースキー一つ押すだけで「変換」も「意味」も調べてくれる。より詳しく引きたければ「Google先生」を「自宅大学」に招聘すればいい。年中無休で働いてくれる。この前、家電量販店に立ち寄った際に「電子辞書」の進化を目の当たりにしたが、彼を教授に据えれば仕事に行き詰まることはほぼない。実際、雑誌の校正・校閲をしていたときにはパートナーも僕もまず「電子教授」のお言葉をいただくことから作業に取り掛かっていた。

 

また僕は字が汚かったから(今でもそうだが)、あの漢字の書き取りやドリルは見せるのも恥ずかしく、友達と比べてだいぶ萎縮しながら過ごしてきた。それがダメだと叱られつづけ、今でも字がうまい人を無条件に尊敬してしまうのは、そういった体験が潜んでいるからに違いない。畏敬の念をそのままに、コンプレックスを解消してくれたのが、ワープロだったともいえる。

 

 カメラに自動露出の機能がついて誰でも絞り込みが可能となったように、またフィルムからデジタルになりいつでもシャッターが切れることになったように、文章を書くという技術も第一に革新と解放を繰り返し今日までやってきた。書ける・書けないを性格や才能の問題として語る前にその技術的な側面に目を向けることから始め、かつ、現代の言説空間を侵食しつつある誹謗中傷や罵詈雑言に直視しなくてはならないだろう。

 

「言葉の解放者」は誰にとっても等しく“解放”をもたらし、対象の存在を脅かすだけの悪意としか解釈できないような類の言葉も氾濫させた。いま「国語教育」の真価が問われるとすれば、誰もが言葉という武器を手にしてしまった世界での戦い方、つまりは「ルール」と掟破りからの「身の護り方」をさしあたり知識の上だけでも武装させられるかどうかに、かかっている。

 

 

(抱えつづけていられたら)また次週……!

 

初出:facebookの投稿(1/16)より

“「文体」と言われるものについて(その2)” への1件のコメント

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