月は空にメダルのように

201608/30
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 リオ五輪・男子400mリレーで日本が銀メダルを獲得したというニュースを、私は出張先から帰ろうとする駅の待合室で知り、その夕刊の見出しを嘘かホントかと見定めながら軽く足に力を込め、太もも裏の古傷が確かにうずいたのを感じとり席を立った。陸上競技の経験など、今や点滅する信号に向かって「走れ!」と呼びかけみなで駆け出すときくらいにしか活かされず、その際、酔ってほてらせた頬を冷ますのにちょうどいい風を受けるばかりになった。

 

揺れもせず音も立てずレールを滑る新幹線は、蒸し風呂を思わせた逃げ場のない都市をものの数分で突き抜けて、さきほどまでじっとり汗ばんでいた身体の熱を急速に奪っていく。

 

“月は空にメダルのやうに、

街角に建物はオルガンのやうに、

遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく

――イカムネ・カラアがまがつてゐる――”

 

 好きな選手の活躍を願い、彼の記事をスクラップする程度には、短距離走にのめり込んでいた。前傾姿勢のその角度、一度違えばコンマ一秒の差がでるからと気を張り巡らせ、しかしながらそんな注意を軽く吹き飛ばす向かい風には執着しない、不思議な感覚を持ち合わせていた頃だった。彼のあの快挙を我が事のように受け止め、翌日から嬉々としてトラックに躍り出たことなどはよくそれを物語っている。

 

売り子の声に振り返り、少しの期待を寄せた自分にあきれつつも、取り揃えていないものを一つ学んだと言い聞かせ、結局はビールを買った。トンネルに入るとかすかに気圧が変化するのを感じられた。

 

“その脣は開ききつて

その心は何か悲しい。

頭が暗い土塊になつて、

ただもうラアラア唱つてゆくのだ。”

 

 すぐに酔ってしまえるときと、なかなか酔いが回らないときとがある。今日は疲れた身にも頭の隅はどこか冴えていて、灯りを探すようにその輪郭を解き明かそうとしている。ただやはり疲労のほうが先を行ったらしく、あのまま走り続けていたらどうなっていただろうかなど、どうしようもないことを考え始めている。

 

スターターが鳴る。低く、低く、上体を起こさずに、地面を蹴とばす。痛みに気がつくのは、転倒した後か前か。とにかく自分はうずくまっており、もう走れないことがわかる。足だけでなく笑顔を引きずらせたまま木陰に移り、仰向けに寝かされ見上げたときの新緑は、狂おしいまでに青々と生い茂っていた。

 

“商用のことや祖先のことや

忘れてゐるといふではないが、

都会の夏の夜の更――”

 

 私が手にしたメダルは一つだけだった。金色の、噛んだら本当にチョコレートの味がしそうな、いかにも安っぽくみえる代物だ。ライバルの棄権で一位になったというのにふさわしい。この銀メダル――私はオンライン版でその記事を読んでいた――とはわけが違う。重厚に、威厳をもって、リオの夜空を見返している。

 

けれども、あの重みが首に蘇る。これは決して睡魔に襲われたとか肩が凝ったとかいうことではなく、現に車窓に映る自分の顔とその奥に立ち現れ出したビルの群れを目が覚める思いで見つめていたのだが、記憶が鮮明になるにつれてずしりずしりと響いてきた。

 

 彼があの世界大会で日本人として初めて表彰台に立ったとき、私はすでに怪我をした後で、それでも胸の底から込み上げてくる喜びを抑えきれず、ゆっくり、ゆっくりと走り回っていたのだ。世界大会があったのは夏の終わりで、怪我があったのは初夏の時分。私が走るのを止めたのは、故障したからではない。チョコレートを金ぴかに輝かせ、何度も手のうえで推し量らせたものが、なくなったからだ。それさえあれば、バカみたいに楽しく真剣に走っていられた。

 

“死んだ火薬と深くして

眼に外燈の滲みいれば

ただもうラアラア唱つてゆくのだ。”

――中原中也 『都会の夏の夜』

 

 もうじき下車する駅に着く。ドアが開き、キャリーケースを引いたなら、きっとまだ下がりきらない街の外気に包まれる。それにじわりと熱くなるようでは、繰り出した途端に目をやられてしまう。だが、いい。どんどんつけ込んでくればいい。この芯を灯せ。今夜の街は明るければ明るいほど、どこまでも歩いてみたい気持ちにさせる。