短編小説4『ユウスケとユウカの福音』

201408/03
Category : Notesシカ噺 Tag :

 

 首相官邸前で数万人もの人々が「原発反対! 原発反対!」と声を上げている。ユウスケはその最前線でシュプレヒコールを唱えていた。

 

 2011年3月11日、東日本に大震災が襲いかかった。ユウスケは大学の春休みで、母とともに自宅にいた。大きな揺れが数分つづいた。これから買い物へ行くために化粧台の前に居座る母を引きはがし、その手をとって表へ出た。そして一考したのち、ヘルメットをかぶり列をなす会社員の群れに混ざり避難場所へと向かった。

 

 すでに品薄になっていた水を買って帰宅し、本や食器で散乱した部屋を踏み越え、テレビをつける。東北の火災や津波の状況が報道され、いったん画面が切り替わる。従妹のりょう子の村が映し出された。海水で溢れている。目が釘付けになった。あのときの記憶が蘇る……。

 

 少年時代、叔母の再婚によってりょう子は群馬を後にした。その約一年後に移住先の村が大々的に報じられた。1999年、リンカイ事故、リンカイ事故という聞き慣れない言葉が耳にこびりついた。ユウスケは呆然としながらりょう子の村の俯瞰映像を眺めていた。仕事を終えて帰ってきた父にすぐ知らせた。りょう子の村が映ってると。

 

 「ホウシャノウが漏れたんだ。おれはずっと嫌な予感がしていた。でもこんなにすぐとは……。」

 「お父さんホウシャノウってなに? リンカイってなに? ヒバクシャ言ってるけど……。」

 「ミツコ、一家に連絡とったか。なにぼーっとしてる、お前の妹だろ、早く身の安全を確かめろ!」

 

 叔母たちは屋内退避を命じられていた。ユウスケは自分の部屋に籠もり学習机から鉛筆と便箋を取り出し、りょう子に手紙を書いた。明るい話題でいっぱいにした。りょう子の友だちの近況も伝えた。返事は、来なかった。

 

 

 永田町は地鳴りがしていた。人々の合わさった大声で。時代は変わる、と思った。これで時代は変わると信じていた。大学に入ったものの、やることすべてに身が入らなかった。教科書を板書するだけの授業、学生との他愛ない会話、どれも就活前提の学生生活に嫌気がさしていた。そんなに就職したいならここに来る前に出来たはずで……。決して裕福とは言えなかったユウスケの家。父はある時点まで己の道である空手に多くを投げ打ってきたし、母は専業主婦として苦しい苦しいとつぶやきながら家計のやりくりをしてきた。ユウスケは自分は商工系の高校を出て地元の有名な自動車工場に勤めることと思っていた。そこにはユウスケの好きな車もあった。しかし高校受験を控えた年に、父から言われた。

 

 「父さんはじいちゃんからユウスケを大学に行かせるよう頼まれている。じいちゃんはユウスケの生まれたときから大学のお金を貯めてきた。学資保険だ。良い高校を選べ。」

 「良い高校ってなに?」

 「大学に行ける高校だ。」

 「そんなの自分の好きにさせてよ。だいたいなんでお金のこと黙ってたの?」

 「口にしたら母さんは満期になる前に下ろすだろう。そんなの見えている。」

 「もう言っちゃったじゃん。」

 「通帳は隠してある。」

 

 取りつく島がなかった。反抗する勇気もなかった。悶々とした日々を送っていると、ユウスケにある高校からスポーツ推薦の話がきた。ユウスケは陸上部で、舌は回らないが足だけは速かった。これなら体育会系の父の目もごまかせそうだし、高校で走ることもできる。走る勢いのままどこかの企業のチームに入社すればいい、これで決まりだ。

 

 

 学生運動をはじめたのは大学の四年生からだった。書を捨てて、町に出た先に、ユウスケを充足させるなにかがあった。それは社会変革への希望であり、戦っているという実感であり、時流に逆らえず押し黙っている学生への当てつけでもあった。ただし組織(セクト)には属さなかった。一人で貧困や戦争に対するデモに参加し行動していた。抗議活動中、逮捕される人々を何人も見てきた。ほとんどは警官と袖が触れ合ったくらいの理由で装甲車に押し込まれていった。ユウスケも警官に囲まれたことがある。誰か一人を見せしめに連れて行こうという姿勢でいる。ユウスケは隙をついて逃げ出した。全力疾走した。振り返ったときには人影もなかった。まだこの足は使えるようだ。

 

 

 スポーツ特待生として高校に招かれた。当たり前だが陸上部に入ることが条件だった。しかし入部してすぐに足を故障してしまった。太ももの裏(ハムストリング)の肉離れで短距離走には致命的だった。ユウスケは校庭に倒れた。再発を重ね、何度も地に伏した。選手としての回復の見込みはなく、実業団への就職の夢は崩れ去った。

 

 「陸上部を辞めたいのですが。」とユウスケは監督に切り出した。

 「ああ? 許されるわけないだろ。」監督は怖い人だった。スポーツ特待生が部を去る例などないと言う。「走れないなら部室の掃除でも選手のケアでもなんでもやれ。」

 

 肩を落として担任の数学教師に相談した。たまたま、その先生と監督とは飲み友だちで仲が良かった。先生は体育教官室に入り、数分後、顔を赤らめて出てきた。一杯ひっかけたのかもしれない。

 

 「ユウスケ、話まとまったぞ。お前は辞められる。」

 「本当ですか! ありがとうございます!」

 「それで、これからは勉強やれ。学校で一番になれ。それが条件だ。」

 「ええっ!」

 「特待生だからしょうがない。推薦で入ったなりの実績を残せ。じゃ、監督と飲んでくるから。」

 

 先生は軽く手を挙げて去っていった。その日からユウスケは猛烈に勉強に取り組んだ。真相はわからないが体を張って自分を守ってくれた人がいる。単なる飲みではないことは先生の背中が語っていた。先生から一晩を奪ってしまった。おそらくその後に交渉は待ち構えていたのだろう。とにかくユウスケは監督の手から逃れ、先生のために朝から晩まで勉強した。受験のためではなかった。ただ恩返ししたいだけだった。そうしたら、二年生の三学期に、学校で一番の成績を収めてしまった。ユウスケは順位のついた成績表を持って職員室に駆け込んだ。先生はユウスケを見て笑った。

 

 「先生!」

 「一番取ったな。」

 「なんで知ってるんです?」

 「ここは学校、先生ならみんな知ってるわ。」

 「先生のおかげです。今回の数学のテスト、図描いたあんな証明で丸つけてくれて。」

 「“あんな証明”を教えたのもおれだ。図示してわかれば十分。余計な数式はいらん。」

 「ありがとうございます。」

 「で、」先生はポインターをシュッと伸ばしてユウスケの頭に置いた。「どこの大学に行くつもりだ。」

 「まだわかりません。……スバルもありかなと、やっぱりレガシィですよ、レガシィ。いたっ!」ポインターで叩かれた。

 「それは大学行ってからでも遅くはない。今のお前ならどこでも行ける。一度地元を離れろ。好きなところに行け。好きなことを学べ。一番の特権だ。」

 「はあ……春休みに考えておきます。それにしても今度の先生の宿題多すぎません? ノートが何冊あっても足らないです。」

 「束にして背負って持ってくればいい。じゃあな。」

 

 休み明け、先生の宿題をすべてこなし、紐を十文字にかけて持参した。先生が笑ってくれると期待した。先生は、異動してこの高校にはもういなかった。

 

 

 官邸前には次々とプラカードを掲げた人が押し寄せてくる。太鼓が激しく打ち鳴らされ、警笛は各々が持ち寄った笛の音色でかき消される。ユウスケは来年度に大学五年生になる。自分の好きなものを見つけるためにあと一年時間が欲しいと親に打ち明けたときには揉めに揉めた。お金は底をついていた。学費は自分で払う、それでもやり残した宿題、届けられなかった宿題を片づけたい。中途半端に終わりにしたくなかった。広い社会と向き合い自分を知り、好きなところへ飛んで行きたかった。

 

 そのとき、警官隊のガードが人波に耐えられず乱れた。規制線は後退に後退を重ね、ついには官邸の入り口まで引き下がった。敷地内までがら空きである。このまま突っ込めば行ける、とユウスケは思った。――声が届く、社会が変わる、人々が力を持てる。

 

 その夢は数分後に打ち砕かれた。中止要請が下された。他でもない、人々の側から伝えられた。主催者は警察車両の上に乗り声高に呼びかける。これ以上警官に迷惑をかければ次の抗議が認められなくなる。今日のところはこれで終わりにし、また来週、抗議をしよう。――抗議のための抗議。ユウスケは急に疲れを感じた。居場所はここではなかった。人々同士でぶつかり合う様子を傍目に、ユウスケは暗闇に姿を消していった。一つの戦いが終わった。

 

 

 余震もまだ頻繁に起こっている頃、ユウスケはお盆に長野の「イワムラ」に帰った。今や最寄りの駅まで新幹線が通っていて、碓氷峠を車や列車で長時間かけて越えることもなく、すぐに着くようになった。かつて祖父が母屋の隣に建てた離れには、父の弟夫婦が住んでいる。三姉妹のいるにぎやかな家庭だ。

 

 門前でタクシーを止めてもらう。懐かしい。祖父に入学報告をしに訪れて以来だ。通常なら今年で卒業報告もできたはずで、自分の希望したことといえども、胸が痛んだ。気分はまるで都落ちだった。

 

 車の音を聞きつけてか、離れの家から子供が出てきた。
 
 「ユウくんだ!」

 「ユウカ……で間違いないよね。」

 「忘れないでよ!」腕を三角定規で叩かれた。幼かった三姉妹の見分けは四年も経つと難しい。

 「何年生だっけ?」

 「六年生だよ。ユウくんは?」

 「……五年生。」

 

 ユウカは「あたしのほうが学年うえ!」と顔をくしゃくしゃにして笑った。末っ子特有の人懐っこさがある。ユウスケはこの子が小学二年生から六年生になるまでが「四年間」なのだと、その成長ぶりから思い知った。自分はただずっとさまよっている。

 

 「お父さん、お母さんは?」

 「仕事でいない。」

 「お姉ちゃんたちは?」

 「塾に行ってる。」

 「じゃあじいちゃんがいるのかな。」ユウスケは母屋を指差した。ユウカは首を振った。

 「ユウくん知らないの? おじいちゃんはカイゴシセツにいるんだよ。」

 

 えっ、と言葉が詰まった。介護施設。いわゆる老人ホームってやつだろう。動揺を察したようにユウカはつけ加えた。「でも元気だよ。大丈夫、大丈夫。」この子は賢い。小さいときから人の目をじっと見つめて心境をうかがっていた。穴が開くほどに。

 

 「ユウくんはなにしに来たの?」

 「お盆だし、みんなに会いに来ただけなんだけど、みんないないね。というか、一人で留守番は危なくない?」

 ユウカは腰につけた防犯ブザーを鳴らした。慌ててすぐに止めさせた。ユウカはまたキャハハと笑った。

 「あとケータイもあるもんね。あ、ねえねえ! メアド交換しよう!」

 

 時代は変えられないかもしれないが、確実に流れてはいる。小学生が携帯電話を使いこなし、ユウスケとメアド交換。じいちゃん、信じられないよなあ。うちとのやり取りはずっと固定電話だった。じいちゃんがそこにFAXを導入した際には笑ったね。うちにはFAXがないからなに書いても送れないよって。残念そうな顔してたね……。ユウカは例のごとくユウスケの顔を見ていた。

 

 「なに考えてるの?」

 「昔のこと。ユウカが生まれる前のこと。」

 「ふーん。」ユウカはストラップを指にかけケータイをぶらぶらとさせた。「ママたちに知らせる? ユウくんが来たこと。」

 「いや、いいよ。仕事なのに気を遣わせたくないから。ちょっと立ち寄っただけだし。」

 「ちょっとって、四年も経ってるよー。」ユウカは意地悪く言った。

 「かなわんな。よく覚えてるね。」

 「ユウくんやせた。」

 「ユウカは大きくなった。家でなにしてた?」

 「夏休みの宿題。ちょうどいいや! 手伝って!」

 

 ユウカはユウスケの腕をつかみ強引に家に上げた。増築されさらに広くなっている。一人で留守番は寂しいだろう。ユウスケの目の前に算数のドリルが開かれた。図形やマス目がたくさん出てきた。ノートに図を描いて考え方を教えてみせた。

 

 「これで一目瞭然でしょ。あとは答えだけ書けばいいよ。」

 「えー、式とか計算とか見せなくていいの?」

 「なんか突っ込まれたら図示すれば十分。」

 

 ユウカはまたもや笑った。そんな先生いないよと。いや、いたんだよ、と心のなかで答えていた。

 

 「ユウカ、散歩したくしない?」

 「うーん。」ユウカは見上げた。「ユウくんが散歩したいって正直に言えば。」

 「ほんとかなわんな。」

 

 ユウカを連れて辺りを歩いた。田畑は変わっていない。でもどこか重みのない、空っぽな風景として目に映る。

 

 「ぼくが小さかった頃、この道路沿いにおもちゃ屋さんがあって、じいちゃんにプラレールを買ってもらったんだ。」

 

 ユウカはユウスケの思い出の道をトコトコとついて来る。あの頃のりょう子のように。改めてユウカは何年生まれか聞いてみた。1999年と返ってきた。ユウスケは立ち止まった。りょう子、リンカイ……。

 

 「どうしたの?」

 「それは……長野オリンピックの一年後だね。」

 「ユウカが生まれる一年前にあったんだよね。惜しかったなあ。」

 「同じ年に生まれてても、どうせ覚えてないよ。」

 「ユウくんは覚えてる?」

 「少しだけね。」

 「ねえ、ユウくん。」ユウカは淡々と言った。「あたし、男の子だったらよかったのかな。」

 「誰かから言われたの?」

 「ううん。自分でそう思った。だってうちは……」

 「ここは陽射しが強いし、木陰に入ろう。」

 「……うん。」

 

 ユウスケは記憶を辿った。昔、祖父と両親でお参りした神社を。自分が生まれる前には祖母も一緒だったと聞く。たしかこの坂の途中に巨木があって、それを境に分かれ道がある。どちらかに進めば鳥居が見えるはず。

 

 「あ! 真っ赤な門!」

 「鳥居って言うんだよ。国語テストに出るからね。」

 ユウカは口をとがらせた。ここ、稲荷神社に来るのははじめてのようだ。売店でアイスを買ってベンチに座った。

 「ここ涼しいね。」

 「長野は夏でもからっとしてるからいい。」

 「ユウくんのところは暑いんでしょ。テレビでよく見るよ。た、た、」

 「館林ね。国語テストに出るよ。」

 「出ませーん。」

 「あのときは吹雪だったな。」

 「え、雪降るの?」

 「長野オリンピックの話。」ユウカに小突かれながらもユウスケはつづけた。

 

 「スキージャンプっていう競技があるでしょ。ぼくはその団体戦を見てたんだ。メダルの行方はある一人の選手にかかっていた。これは後から知ったことだけど、その選手、前回のオリンピックでジャンプに失敗し、団体戦の金メダルを逃した過去があった。たくさんの非難、バッシングを浴びて、四年間ひたすら練習しながら堪えていた。そうして迎えた長野オリンピック。その日は視界が見えないほどに吹雪いていた。それでも日本チームはがんばって遠くに飛んだ。一人を残して。」

 「……その選手?」

 「そう。一本目のジャンプ、悪天候で伸びなかったんだ。日本は順位を下げた。ユウカ、どう思う? 四年間辛い気持ちで生きつづけて、また失敗するんだよ。」

 

 ユウカが神様っていないのかなあと頭を垂れた。ユウスケはユウカの手を握った。

 

 「しかもあまりにも雪が降りすぎて競技は一時中断。このまま終われば、またメダルを逃してしまう。でもその選手だけは信じていた。自分の二本目のジャンプを。祈りに応えるかのようにテストジャンパーたちがこの状況でも飛行可能なことを示し、競技続行となった。その選手は再びジャンプ台に上っていった。あの姿は鮮明に覚えているよ。忘れられない。だって、誰よりも高く、どこまでも遠く、猛吹雪を切り裂いて飛んでいったんだもの。すごい大ジャンプだった。長野の地に金メダルが舞い降りた。」

 

 「神様っているんだね!」

 「いるよ。自分を信じる人にはね。」

 「神様じゃなくて?」

 「そう。今ここにある命を、与えられた命を信じられる勇気を持つ人に。そして過去じゃなく次のジャンプを信じる子供に!」

 ユウスケはユウカを抱き上げ空に掲げた。自分も次のジャンプに賭けていることは胸に秘めて。

 「やめてよー!ちっちゃい子じゃないんだから!」

 「ユウカ、余計なことは考えなくていい。自分の道を生きろよ。誰のためでもなく、ただその命のために生きろよ。」

 「わかったから下ろしてー!」

 ユウカは笑い泣きしていた。泣き笑いかもしれない。ユウスケはユウカが好きなところへ行けるように願った。

 「そうだ。記念写真撮ろうか。」

 「うん。カメラあるの?」

 「そこの売店でバカチョン売ってた。」

 「バカチョンって?」

 「平成生まれは知らんか。すみません、一枚、撮ってもらっていいですか?」

 「ねえバカチョンってなに?」

 「今からおばさんが押すもの。」

 

 売店のおばさんはハイ、チーズと言ってシャッターを切った。

 

 ユウスケはユウカを家まで送り届け、帰ろうとした。まずは大学を卒業するんだ。

 「泊まっていかないの?」

 「ちょっと寄っただけだから。」

 「ユウくんはオリンピックおじさん!」

 「おじさんじゃない!」

 「あたしが平成生まれなら、昭和生まれはおじさんだ。」

 「そうかもね。オリンピックってのはジャンプの話聞いたから?」

 「違う! 四年に一回しか来ないから!」

 「わかった、次はもっと早く来るよ。じゃあね。」

 

 翌年、その言葉通り二人は再会した。――祖父が天に召されたために。

 

短編小説4『ユウスケとユウミの福音』