シカミミの絵日記11『海の向こうと、こちら側』

201401/12

 

“星のかわりに 夜ごとことばに火がともる。
生きることほど、人生の疲れを癒してくれるものは、ない。”

ウンベルト・サバ

 

 須賀敦子が愛した詩人、サバの一節より。これはミラノを詠んだものらしい。ぼくは海外に行ったことがない。正確には物心ついてからは。かつて一度、オーストラリアでホームステイをしたことがあるが、市の交流事業の一環で、右も左もわからない子供のためにさまざまなサポート体制が整えられていた。「お腹がすいた」と思ったら、用意された翻訳ボードを指させば済むようなものだった。

 

 それでもホストファミリーとの思い出は断片的に輝かしく残っている。祖父母から叔父や叔母までに引き合わされ、行く先々であいさつをした。ニッポンカラキマシタ、ヨロシクオネガイシマス、なんてことしか言えず、あとは笑顔をふりまいた。それでもうまくいくもので、叔父からは“You are so attractive!”(とっても魅力的だね)と抱きしめられた。少し酔ってはいたが、この言葉は今も心の底でぼくを支えてくれている。

 

 ゴールドコーストのビーチはその名があらわすように美しいものであったが、まだその美しさを自身の思い出や将来に寄せて眺めることはできなかった。子供にとっては観光地は観光地、海は海である。ただはしゃいでみせることが仕事のようなものだ。

 

 しかしながら、幼心にもはっとする瞬間があった。ホストマザーはとてもクールで、いつもサングラスをかけてBMVを乗り回すような人だった。初対面のとき、迎えに来てくれたマザーは「さあ、乗りな!」といった感じに威勢よく、「こっちの音楽で知ってるものある?」などとこちらの緊張をほぐすように矢継ぎ早に質問してきた。この頼もしいマザーと数週間の日々を過ごしたあと、今度はぼくを送りに車を走らせる。マザーは無言で、サングラスの下から、涙を流していた。ぼくはなにも言えなかった。そこには心を揺さぶるなにかが、今思えば海よりも美しいなにかがあった。

 

 それ以来、海を渡ったことはない。時間とそこそこのお金があった学生のときも海外に行くという選択肢は浮かんでこなかった。過去の自分は怖いもの知らずだったとさえ思う。今はそれなりに色々な経験を経て、人見知り傾向が強くなっているので、なおさらそう感じる。地図は変わらないが、海は遠くなった。

 

 またぼくにとって旅は遠くへ行かずとも、日常の中にあるものだった。授業に出ずに通った名画座、留年して模索した表現活動、そしてたどり着いた脱就活。既存のレールから外れて歩めば、近場がすべて異国で、実際ぼくは異邦人のように生きた。まっとうに就活をしていた人から見れば、ぼくは言語の通じない外国人として映っていただろう。でも楽しかったんだ。毎日が旅のようで、未知との出会いに胸をふくらませ、少しふてくされながら、たとえば神保町の古書の海を気ままに泳いでいたことが。

 

 しかし働きはじめると(脱就活は脱就職ではない)、当然、拘束時間は増えるわけで、そうなると通勤途中に見る旅のポスターや外国の情景に素直にいいなあと憧れるようになる。遅ればせながらの“渡航願望”だ。きっとそこにはこの日常を相対化してくれる空間がある。この国とは違った時間の流れに身を任せていたい……。

 

 だが現実は、旅は終わりがあってこその旅だということだ。帰る場所があるから、その時間が旅だと認識される。ずっとあてもなくさまようなら、いずれそれが日常と化してしまう。日常と非日常を隔てる壁が崩れたら、その間を往き来する旅はできない。そう考えると、この日常、日々の仕事は、旅を可能にする出発点であるとともに、終着点でもある。

 

 ぼくたちは旅を求めるならば否応がなく日常をしっかりと生きなくてはならない。すべてを捨て去ることはできない。むしろ大事なのは、日常の中に非日常をいかに生み出すが、そこにかかっている。そう、“夜ごとことばに火がともる”、その火を点けることなのだ。マッチ棒は、ペンであったり、絵筆であったりする。

 

 哲学者のドゥルーズはこのように言う。「文章を書く目的は生を与えること、そして生が閉じ込められていたら、そこから生を解き放つこと、あるいは逃走線を引くことなのです。」また批評家のブランショは「書くこと自体が未知の世界に入る冒険だ」と述べている。

 

 旅はこの手のなかに眠っている。物理的な移動だけがぼくたちの生を救うのではない。まさに“生きることほど人生の疲れを癒してくれるものはない”と言うところの生だ。仕事終わりの疲れた晩、この手で、自らの筆で、癒しに向けて出発できる。そしていちばん遠くに旅するには、なによりも「太く、長く」生きてみせることだ。

 

 須賀敦子は60歳を過ぎてから長い旅路の果てに自分の「ことば」を紡ぎはじめた。旅先の花を摘み取るのに、遅すぎることはない、焦りすぎることもない。海の向こう側とこちら側をともに探索しながら、ゆっくりと時間をかけて花を咲かせていけばいい。美しい花は、積み重なった夜に開く。

 

さめ子