第13回別冊スクラップブック『「関所破り」と「縁切り」』

201309/17

 

 第12回スクラップブックの考察から、「利他性」「コミットメント」の先の海に漕ぎ出してみよう。これらは「贈与」によって互酬的な関係を取り結ぶ力を持っているが(クラ交易を参照されたい)、その関係が強すぎると「縁」は「呪縛」に変貌を遂げてしまう。安冨氏はそれを端的に「ハラスメント」と表現し「運営のされ方一つで、このような《公共圏》はいつでも《公共ハラスメント圏》に転じうる」と述べる。

 

ハラスメントとは、相手の抱いている感覚とは異なった「意味」を押しつけることである。この押しつけられた意味と感覚のズレに対して、「自分が間違っているのではないか」という罪悪感を抱かせることができるなら、それを使って相手を操作することができる。

 

 ぼく自身も今まで「贈与」がもたらす “縁結び”に過度な期待を寄せてきて、それが引き寄せる負の側面を真剣に捉えてこなかった。だが善意ある贈与も受け手にとっては「負い目」になったり、逆にその贈与を相手が都合よく利用したりする事態も想定できよう。(贈与に乗じた「搾取」は実際によく見受けられる。)これを見通したような章が『論語』にはある。
 

「怨みを匿して其の人の友とするは、左丘明之を恥ず。丘も亦之を恥ず。」
「子曰く、唯仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む。」
「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同して和せず。」

 
 安冨氏はこう解釈する。「人に怨みを抱いたときに、我慢して縁をつないでいるのが『同』であり、これは小人のすることである。人々が同するとき、呪縛が蔓延する。これに対して仁者は、怨みを抱けば相手を正しく悪み、友としての縁を切る勇気を持つ。この仁を人々が保持するときにはじめて、和が生まれ、礼が実現する。」

 
 すなわち縁が呪縛に転化しないようにし、礼を実現させるためには、相手が友であってもいつでも関係を断つ勇気が求められる。また縁が切れない(と思い込んでいる)状況は相手がハラスメントを仕掛けることを容易にさせる。これではいくら「縁」を強調しても社会の秩序は保たれない。「縁結び」と「縁切り」はセットになって「利他性」や「コミットメント」が適切に働く土壌を耕すことができる。

 

私は、人間が自由である、ということは、「縁結び」と「縁切り」を自分の感覚に従ってできる、ということではないかと考えている。良縁が生じたと感じたときには躊躇なく縁を結び、縁が呪縛に転じたときには躊躇なく縁切りをすることができるなら、その人は自由である。

 
 またこうも言えるだろう。「有縁」は「無縁」に支えられて機能するものであり、人が縁を切る行動を社会(共同体)が容認し支持するという仕組みがある場合、縁の呪縛への転化は抑制され、生は自由に羽ばたくことができる。ぼくは古典派の経済学者J・S・ミルのこの言葉を思い浮かべる。「人間にとっては、必ずいつも同類のまえに置かれているということは、よいことではない。孤独というものがまったく無くなった世界は、理想としてはきわめて貧しい理想である。孤独――時おりひとりでいるという意味における――は、思索と気持の高揚と――ひとり個人にとってよい事であるばかりでなく、社会もそれをもたないと困るところの、あの思想と気持の高揚と――を育てる揺籃である。」

 

 最後にこうして見えてきた「共同」と「孤独」をつなぐ力について考察してみたい。ここで参照するのはスピノザの哲学だ。彼は二十三歳のときにユダヤ教会から破門(excommunicate:「共同体から追い出す」という語源を持つ)を宣告された。そこから理性を「人間の本質としての自己保存の努力(コナトゥス)をより徹底させようとする生命の力の表現」とする開かれた思想を展開していく。スピノザの「共通なもの」とは「イデア」というようなものではなく各々に潜む「力能」であり、見たり感じたりする自分の感覚である。

 

 では、そこには人々のあいだで共有すべきものは生まれないのか。安冨氏の議論に即して、スピノザの友人のホイヘンスが発見した振子時計の「同期」という現象を紹介したい。

 

 あるときホイヘンスは病気で自室に閉じこもっていた。その部屋の壁には二台の互いに周期の異なる柱時計がかけられていた。一つの壁にかけられた二つの柱時計を眺めていてホイヘンスは驚くべき発見をする。その二つの振り子が片時も歩調を乱すことなく正確な一致を保ちはじめたのだ。彼はそれを「共感」と表し、これら振り子は「共感」しているときには同じ向きにはならず、必ず正反対の方向に揺れていた。両者の距離を離すと「共感」は失われ、一日に五秒の誤差が生じた。

 

ホイヘンスは実験を重ね、『共感』の原因は空気の乱れではなく、両者を支えている壁の微細な振動を通じて相互作用が生じているからだ、ということを突き止めた。彼は二脚の椅子を背中合わせにして、背もたれを渡すように二枚の厚板を置き、それぞれの板から柱時計をぶら下げた。すると時計は『共感』し、正反対の動きを示した。力を加えて『共感』を崩すと、今度は二脚の椅子がガタガタと震え出した。三〇分後に『共感』が回復すると、椅子の震えはピタリと止まった。

 

ホイヘンス振子時計実験

安冨歩『経済学の船出』より

 
 この発見は十七世紀の当時、大航海時代に制作を求められた時計とはあまり関わりを持たず、顧みられることはなかった。この問題が自然科学の分野で取り上げられるようになったのは、ちょうど三百年後、一九六〇年代後半になってからで、「非平衡熱学」や「非線形科学」という分野が興隆したときだった。人々がこの「同期」現象に目を向けてみると、自然界には同様の現象で満ちていることが明らかとなった。

 

 これが意味する大事なものとは、まず同じ本性を事前に「共有」していたから「共感」が起きたのではないということであり、また異なる振動数は相互に接続されて「新たな振動数」で安定的に同期したということである。スピノザの「力能」を当てはめれば、互いに異なった“1”と“1”とが足されても決して“2”とはならずに、質的に新しい「力能」が誕生することだといえる。

 

 ここに、「共同」と「孤独」の二項対立を乗り越えて、自由に生きながら他者とつながる契機を見いだすことができるかもしれない。経済が生命の生きるための力の発揮、つまり創発的な価値を生み出し、人々はそれぞれ「コナトゥス」という生命の力の表現を徹底していけば(徹底していっても)、個体数に還元できない「社会」(一つのシステム)が形成される。換言すれば、社会をよりまっとうな方向に動かしていくためにすべきことは、創造的な出会いを通して、一人ひとりが自分自身の真の姿に恐れずに向き合う勇気を持つことである。そしてその「創発」の作動を妨げるものには戦っていく必要がある。相手が「関所」なら「関所破り」を、状況が「ハラスメント」なら「縁切り」を実行していく。そうすることで「コミットメント」は呪縛なき価値ある様相を見せはじめ、社会の基礎となる人々の絆も回復されていくだろう。