rengoDMS message 『Erbarme Dich 「マタイ受難曲」』の紹介

201308/15
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 8月のrengoDMS、光世さんのエッセイは『Erbarme Dich「マタイ受難曲」』と題する、「信仰」をめぐる物語だった。その物語を紡ぐのは、パゾリーニ『奇跡の丘』、ベルイマン『冬の光』、そして仲正先生の『Nの肖像』。 http://www.rengodms.co.jp/message/2013/08/erbarme-dich.html

 

 信仰、これは今の自分の中心問題でもある。「数年前『Nの肖像』を読んだことがきっかけで、仲正昌樹氏のドイツ現代思想の一連の講義に出掛けた。個人的には出来る限り人との関わりをやめようと思いはじめ数年たった頃だった」と光世さんは振り返る。その感覚が身に沁みてわかる今日この頃。

 

 「絆」という言葉が盛んに使われる現代社会、ほんとうに、人と人とを繋ぐ“絆”などありえるのだろうか。“共同体”にしても同じである。

 

『Nの肖像』のなかで、宗教とは何かを抽象的に定義すると、形而上学的な信念を中心とした「精神的な絆」を求める人たちの共同体であると著者は言う。

 

 キリスト教の聖餐式は「共同体 Community」と語根を同じにする「Holy Communion(聖なる交わり)」を意味するという。だが誰もが知っているようにイエスは裏切られ、それは“交わる”ことはなかった。「魂の共同体」の初めに深く刻まれるこの傷は、人間同士の絆を思うたびに痛みとともに呼び起こされる。

 

 それでも「信じる」とは何だろうか。ベルイマン『冬の光』のこの場面はぼくも強く印象に残っている。村人たちがただただ教会に集まって牧師の言葉に耳を傾けるなか、身体に障害を持つ教会の使用人は牧師に問う。

 

イエスが、磔刑でもがき苦しみ血の涙を流したのは、なぜだろうか。キリストともあろう方が、身体の痛みに堪えかねてそこまで苦しむとは思い難い。身体の苦しみは、使用人のこんな私ですら耐えているのだから。では、なぜか。イエスは最後の最後に神を信じることが出来なかった。それこそが、耐え難い苦しみだったのではなかろうか。

 

 はっとさせられる発言だ。牧師はこれに答えられない。だが、ここにあらわれる「人間イエス」にぼくは信じられる“何か”を感じる。

 

 時として“絆”や“共同体”は「繋がり」を説きながらもきれいごとの下で個を抑圧する。一方でぼくは「神を信じることができなかったイエス」の姿と苦しみを「信じる」。この人間的な“受難”を認め引き受けることから、救いに値する何かを見いだせはしないか。

 

 光世さんは『Nの肖像』をこう読む。信じることができれば魂の静寂が訪れるであろうという願いと同時に、信じることを自らが拒否してしまう青年の姿。そしてついに信じない自分と対峙し「共同体」を離れる。でもHolly Communionに「繋がり」を託し、「共同体」を離れた精神の痕跡に、悔悛ではない救いを見ると。

 

 “passion”は「情熱」とともに「受難」を意味する。最初、矛盾するように思えるこの単語がよく理解できなかったが、今なら「信じること」に導かれる精神の経験として把握できる。それは「共同体」を離れた先に踏み込める救済の大地ではないか。そこに降り注ぐは、『冬の光』で撮影のスヴェン・ニクヴィストが映し出したような、教会に射し込む眩くも凍りついた冬の陽光。

 

 自分もある牧師さんから伝えられた言葉を改めて考えている。人生に必要なのは、パッション(passion)、ミッション(mission)、アクション(action)の三つだと。死に向かう存在である人間の生を支えるには何かしらの「信仰」が求められるに違いない。それはこれらが“聖なる交わり”となって静かに光を放つ個の営みに宿るのではないだろうか。

 

 ぼくは葛藤がない信仰は信じない。痛みには声を上げるだろう。受難と情熱のあいだで揺れ動きながら、あくまで個の使命、実践として、それに救いをかけながら、信じる道を歩き続けたい。

 

ベルイマン『冬の光』