『シカミミ自省録 / 生の形式としてのエッセイ』

201307/04
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無我夢中に走ってきた。大学を卒業してからの一年半、さまざまな活動や関係性を引きずったまま、自分はまだ見ぬ新しい日々を追い求めてきた。そして今、ぼくは仕事場では常勤となり、雇用保険にも入って、就活を通さないで働くという「脱就活」の道を着実に切り拓いてきている。

 

しかしそうやってこの命を繋ごうとすればするほど、同時に過去から求められるものと現在したいこととの間に軋轢が生じる。彼らは言う。なぜ動かない?なぜ出ない?戦いはどうなったのか?――ぼくは “働いて”いて、社会のはずれではなくその前線で身をぶつけている。そう簡単に疑問の声を上げてくる者こそ安全地帯にいて、人間を大切にせず、ぴたりと足を止めているのではないか。本当に変革をうながす者ならば、自らの思考、感性もどんどん変わりつづけ、柔軟になっていくものだ。

 

そろそろ一度、ぼくを“都合よい者”として投射してくる過去を整理し、現状から見通す未来を表明するときが来た。それを「自省録」と題し、展望とともにここに記そう。

 

ある視点に立てば、学生時代のぼくは“活動的”で“戦い”を繰り広げていたように映るだろう。3.11後、政治も経済も混乱状態にあるなか(その危機は今も進行中だが)、「就活は社会問題である」と掲げるデモを行ったり、賛同する若者たちとUST討論会を開いたりした。またそこから発展して大学の「学費・奨学金・学内規制」という諸問題に焦点をあてた運動も展開した。どれも今後の社会を担う若者たちの想像力を奪う忌々しい事態だと感じていたし、その気持ちは今も変わらない。

 

また一方で、UST番組「ジレンマ×ジレンマ」に代表される、気軽に幅広く社会について語り合える場も設けた。何者でもない若者たちが多様な意見をすり合わせ、その営み自体が各々の生を支えるコミュニティとして機能していった。「政治」でも「経済」でもなく、互助的な「社会」の層を厚くしていこうとする考えにも変わりはない。

 

以上のような“活動”は目立つもので、新聞記事にもなった。基本的にこれらの「社会問題」や「コミュニティ」へ対する見方に変化はない。でもそれらを“どこで眺めるか”という地平は当然変わった。まず学校を「卒業」したからぼくは「大学」という場にはいない。次に「就職」したからプライオリティは「職場」にある。社会に出ていながら今までのような“活動”に身を投じるのは時間的・地理的に厳しいことだし、逆に社会いるからこそ把握できる現代の問題(社会人の苦しみや疎外感など)に軸足を移したほうがいい。

 

歩みつづける者は、視界も変わる。問題は変わらないが、違う切り口が開かれる。そこを“変わらず”に提示していきたい。“変わらない”とは“拘泥する”姿を指すのではなく、環境の変化に的確に応じ、それぞれの段階でいちばん効果的な方法を見いだしてゆく持続的な努力のことだ。

 

時代の変化にどこまでも対応でき、自らも成長させながら社会に大事ななにかを訴えていく方法として、ぼくは「エッセイ」という形式を選んだ。そう、ぼくの“活動”するフィールドは、具体的な場(大学や一つ一つのコミュニティ)から、エッセイの紡ぎ出すエクリチュール上の地図となった。

 

ぼくを今も昔も貫く問題意識は「生き方の多様性」というテーマであり、「脱就活」の旗のもと、自分でそれを実践してみせている。エッセイはその思想を枠にとらわれずに概念づけ、また、その軌跡をビルドゥングスロマンのように記述する。「脱就活」を伝えるのにもっとも適したエクリチュールなのだ。ある生き方をただ論じてみせたり(批評)、完成形だけをみせたりする流れ(ノマド)に抗うように、ぼくはエッセイと向き合っている。

 

またエッセイという表現方法は、その越境性から豊かで文化的な土壌も耕せる。「スクラップブック」で薫陶を受けた植草甚一のエッセイは、映画から音楽まで多岐に渡るが、どれもが自分の感性に従った自由な発想に導かれるものであり、いわゆる“専門家”の口では語れない唯一無二の次元を創出している。植草氏がモダンジャズにはまったのは50歳にも近いころで、変化を恐れぬ姿勢が自らを絶えず生み出していった良い例だ。文章の多くは引用に満ちているが、文体はあくまで植草甚一そのもので、エクリチュールと実存が浸透し合う関係も理想的だ。

 

一方で、エッセイをアカデミックの側から評価した動きもあった。フランクフルト学派のテオドール・アドルノは著書『文学ノート』の「形式としてのエッセイ」でこのように書く。

 

エッセイがドイツでは雑種の所産として不評であること、納得するに足る形式の伝統を欠き、形式のきびしい要請をごくたまにしか充たさなかったことは、これまでにもしばしば指摘され、譴責されてきた。

 

エッセイは“雑種”であり、“伝統”を欠くという批判にアドルノは異議を唱える。若いころのルカーチや、カスナーや、ベンヤミンによって寄せられた洞察の重みにもかかわらず、「哲学という名の同業組合」によって受け入れられるのは、相も変わらず、普遍的なもの、不変なもの、根源的なものに限られていると。

 

ドイツにおいてエッセイが警戒心を起こさせるのは、エッセイが精神の自由を督促するからで、(…)この国の精神の自由はかたちの上では自由の条件の下にあっても十全な発展を見るにいたらず、つねづねなんらかの権威に服従することをみずからの本望として宣言しかねぬところがあった。

 

ところが、とアドルノは言う。

 

エッセイは、自己の所管について外部の指示を仰いだりしない。学術上の業績をあげるのでもなければ、芸術の創作に携わるわけでもないエッセイは、その労苦のうちにも、他人のやりとげたことにためらいなく熱中できる童心をもったひとの閑日月の跡をとどめている。

 

ここでアドルノはどんな領分にも管理されえない(権威でさえもはねのける)エッセイの自由に光を当てる。そして「幸福と遊びがエッセイにとっては本質的だ」と宣言し、この童心はまさに植草甚一を彷彿とさせる。

 

悪質なエッセイは、悪質の学位論文に劣らず体制順応型である。権威者や委員会ばかりでなく、事柄のほうにも敬意を払うのが真の責任というものであろう。

 

理念としてのエッセイは体系に対する批判から徹底的な結論を引き出してくる。(…)方法の無条件の正しさに対する懐疑は、思考そのものの運びにおいてはほとんどエッセイによってのみ実地に移されたのであった。

 

エッセイは、暗黙のうちに、非同一性の意識を斟酌している。それはラジカリズムを標榜しないことにおいてラジカルであり、原理への還元を極力慎み、全体に対して部分を強調する点において、断片的なものにおいて、ラジカルである。

 

アドルノの説くこの“ラジカル”さこそぼくの求める“戦い”であり、原理的な肉弾戦をみせつけることだけが“ラジカル”なのではない。むしろ、全体的なもの(それは思考停止状態ともいえる)への還元を拒否し、断片的に、同一性に回収されない“戦い”“エクリチュール”を繰り出していくことのほうが、よほどラジカルなスタンスである。

 

エッセイが真実なものとなるのは、みずからを乗りこえてすすむ前進の過程においてであり、宝捜しのために憑かれたように土台を掘り返す発掘者の流儀には縁がない。エッセイの用いる概念にとっての光源は、エッセイ自体にとってもかくされた到達点である。

 

そうだ、エッセイは最初から「到達点」を目指すものではない。いつも情動わき立つ“そのとき”が「出発点」なのであって、そうして書き連ねてきたエクリチュールが、のちに言葉同士の関係性によってある像を浮かび上がらせる。アドルノはそれを「概念のすべてが持ちつ持たれつの関係において用いられ、それぞれが他の概念との配合において明確化される」と“星座”のごとく描写する。

 

まとめると、ぼくの戦いとは「エッセイという形式」と同じように自由な「生の形式」を残していくことである。言葉を星のごとく散りばめていき、そこから誰もが好きなように“星座”を見つけ出しては、それぞれの人生に描き写して活かしてもらえることを望んでいる。

 

それでもまだ“現場に出てこい”と執拗に問い詰めてくる者もいるだろう。それに対しては何度でも「エッセイという終わりなき現場に生きている」と答えてみせるが、ひとつ、「散種」の観点からも応じておこう。

 

2013年06年29日付の東京新聞朝刊「こちら特報部」に『管理キャンパス浸透』と題された大きな記事が掲載された。そこには管理・規制の進むキャンパスで「大学の自由」「学生の自由」を守るために行動している後輩たちの姿が紹介されていた。ぼくの活動が2012年1月10日付の朝日新聞朝刊に載ってから約一年半、その“活動”は脈々と受け継がれ、後輩たちが独自に開花させている。これでいいのではないか。ある特定の場での戦いは、自分が同じ場にずっととどまって引き受けていくより、このように「散種」というかたちで継続されていけばいいのではないかと強く思う。自分にとって通り過ぎた地点をわざわざ振り返る必要はない。かつての姿は誰かが受け止め、思い思いに花を咲かす。この可能性を少しでも広げるために、なおさら「今」を戦っていくべきだ。そしてぼくにとっての「今」という時間は「エッセイ」へと注がれている。

 

色々な言葉を引き合いに出して「エッセイ」は立派な“戦い”であることを示したうえに、「散種」という“戦法”も明らかにした。これ以上、なにも言うことはない。過去には見切りをつけ、ぼくは働き、エッセイを書きつづける。この状況を無視した要求は受け入れられないし、受けつけないことにする。

 

ボブ・ディランは1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、エレクトリックバンドを従えて演奏したが、これまでの弾き語り(プロテストソング)を要求するファンからはブーイングにあった。ディランは一度ステージを降りたあと、アコースティックギターを肩にかけて再登場し、“It’s All Over Now, Baby Blue” を歌った。

 

のこした死者は忘れろ 彼らはついてはいかないよ

きみのドアをたたいている浮浪者は

かつてきみが着ていた着物をきている

あたらしいマッチをすって あたらしくはじめなさい

すべておわったのさ、ベビー・ブルー

 

エッセイという生の形式が、ぼくの新しいプロテストソングだ。

 

シカミミ