第8回別冊スクラップブック『コム・デ・ギャルソンを買ってみた』

201306/09

 

 別冊スクラップブックで紹介したものを“買ったよ”と聞くことがとても嬉しい。ある友人は太宰治の小説『葉』に出てくる「年の初めに夏の着物をもらったから、夏まで生きていようと思った」という言葉を引いて、DigiFiのヘッドホンアンプを購入した気持ちを伝えてくれた。それを楽しみの一つにして仕事をしているそうだ。ぼくはそんな“夏の着物”を配りつづける者でありたい。

 

 第7回スクラップブックでは『ワークウェア考』と題したエッセイを掲載した。その名が示す通り、ワークウェアを中心に生きる営みの“良さ”を考えようとしたのだが、これがなかなか苦労した。スクラップブックの写真家である竹脇虎彦さんにインタビューしに行き、その場でさまざまなワークウェアを見せていただいたのだが、ぼくが「服飾」について語れる言葉はあまりにも少なかった。(それは第3回別冊で示したロイドフットウェアを購入する前のぼくの様子からもうかがえる。)まとめる段階で、見当はずれのストーリーばかりを掘ってしまい、手も足も出なくなった。菩提寺医師からの助け舟に乗り、稿を重ねに重ねて、ようやく筋の通った納得ゆくものに仕上がったのだ。文章は余分な肉を削ぎ落とし減量に成功したボクサーのように引き締まっている。だが一方で、ぼくまでもげっそりしてしまった。たとえ勝利しても「もう試合はこりごりだ」と首を横に振るボクサーに近い。(映画『ロッキー』の最後、ロッキーに辛勝した世界チャンピオンは“リターンマッチはなしだ”とこぼした。)

 

 しばらくは放心状態にあったものの、だんだんとやり遂げた実感が込み上げてきて、時間遅れで一人喜んでいた。そこでエッセイを読み返してみると、ああ、面白いではないか!ぼくはコム・デ・ギャルソンが欲しくなってしまった。なんだかうずうずしてくる。ぼくは自分のエッセイに触発されて、町に出て、買いに走った。

 

 スクラップブックでは「思想」を提示し、別冊ではあくまで「実践」を説く。つまり誰もが実際に行動できる言葉を残したい。お金がなくても楽しめて、目のつけどころ次第で“豊か”になれる“目”の共有。しかし今、ぼくのなかである葛藤が生じている。ブランドでも安く売っているあの古着屋(ぼくはラコステのポロシャツもリーバイスのデニムジャケットもそこで驚くほどの廉価で手に入れた)を紹介したいが、それで奪い合いになるのは避けたい。だが「夏の着物」を届ける者としては、そこに強烈な光をあてたい。結果、「BOOK OFFグループが運営する東京都内にある古着屋」とだけ明かして(調べればだいたいわかります)、話を進めていくことにした。

 

 いくら服飾に疎いぼくでも、新品のギャルソンがいくらするかは知っている。お金がないぼくは“困ったときの古着頼み”でその「古着屋」に向かった。当然、古着なのでどれも一着ずつしかなく、似合うギャルソンに出会えるかは運任せ。

 

 いつものことだが現場に到着したらお腹が痛くなってきた。トイレに駆け込む。これはなぜだろう。「勝負」を前に緊張しているのか。それともまわりの客の放つ殺気のせいか。誰だって我さきにと良品を発見したい。

 

 なかば周回遅れのかたちで、リングに上がった。ギャルソン、ギャルソン、ギャルソンはどこだ!あった!!人が群がっている。ぼくはその隙間に体を滑り込ませ、ライバルの反対側から攻めていくことにした。ぱっぱっぱと服をかき分けていく。さりげなく値札を見ながら。(質の前にまずここで線引きする、悲しい習性。)

 

 おお!と唸るものがあった。しかしそれを表情に出してはいけない。すました顔でその服を手に取る。これはいいぞ。(写真はすべて家で撮ったものです。)

 

ジュンヤワタナベ マン・ガーデナーTシャツ1

 

 ジュンヤワタナベのTシャツだ。「ジュンヤワタナベ マン」、スクラップブックで見た。いや、書いた。しかもその絵柄が、ガーデナーではないか!

 

ジュンヤワタナベ マン・ガーデナーTシャツ2

 

 “Plants and Nature”“Gardener’s Garden”とプリントされている。竹脇さんが言うところによると、「ガーデン」はイギリスでは「自分の場所」という意味があり、その場は自分の「内面性」をも映し出すのだと。そんなことをスクラップブックで載せていて、このTシャツを見つける、これは奇跡ではないか。

 

 竹脇さんはエリック・クラプトンの《Thorn Tree In The Garden》を例に出して、「心のガーデン」を説明してくれた。スクラップブックではカットしたが、ぼくはその曲が収録されているDerek and the Dominosのアルバム『Layla and Other Assorted Love Songs』(邦題『いとしのレイラ』)を購入し、じっくりと聴いてみた。二枚組の大作だった。むむ、むむ、と一曲一曲乗り越えていき、二枚目も終盤になったころ、突如あの有名なギターリフが鳴り響く。《Layla》だ。激情渦巻くスライドギターと実らぬ恋をぶつけるクラプトンのヴォーカルに押し流され、後半のピアノ演奏部も一気に駆け抜ける。すると今度は静かにアコースティックな調べが聴こえてくる。《Thorn Tree In The Garden》が始まった。シンプルでストレートなサウンド、クラプトンではなくボビー・ウィットロックが丁寧に務めるヴォーカル、そしてあっという間の長さ(3分弱)と、すべてが直前の「レイラ」とは対極的である。しかし、それだけに「庭の内面性」が際立っている、そんな印象を受けた。そしてこのアルバム自体が、最後に用意された“ガーデン”にたどり着くための長大な前奏だったとさえ思えてきて、ただ有名であることに覆われていた“名盤”の見方が少し変わった。

 

 この「ジュンヤワタナベ マン / ガーデンTシャツ」(と名づけた)は即時カゴに押し込んだ。ライバルはこの感動に気づいていない。値札を見ると「4,990円」…まあいい、これは絶対に買うんだ。(のちに元値が9,450円であることが判明し、五千円弱での入手は「激安」だった。)

 

 はずみがつくと幸運は転がってくるものなのだろうか。次にぼくの懐に飛び込んできたのはこのカーディガンだった。

 

ギャルソン・ピンクカーディガン1

 

 ギャルソンにはとがったイメージを抱いていたが、このピンクはぼくの肌に合いそうだ。興奮を外には出さず、ハンガーを近寄せ、どれどれといった感じに見てみる。

 

ギャルソン・ピンクカーディガン2

 

 サイズはSSで、「コム・デ・ギャルソン オム」というタグが。これもスクラップブックで目にした文字だ。一見するとギャルソンにしては“普通”にみえるが、どこか人目を引く変わったところがある。この独特の風合いを表現することは、また時間がかかってしまうので、やめにしよう。とにかく気に入って、着てみると丈や袖もぴったりだ。値段は「7,790円」…おそらく破格なのだろう、と思い込んでカゴにぽん。

 

 例によって「購買スイッチ」の入ったぼくは、その古着屋で他の服もあさり始めた。菩提寺医師からのすすめで、これまでに「ラコステ(フレンチが良い)」や「リーバイスのGジャン(1stか2ndが良いと言われたのでぼくは後者の型を選んだ)」をここで買ってきたが、そのリストには「フレッドペリー」も入っていた。ぼくは今度はフレッドペリーのポロシャツに手を出し、カゴにぽん。(価格の上限設定はペンディング。)

 

 コム・デ・ギャルソンとフレッドペリーを手提げ袋に詰めたぼくは、浮き立つ気持ちをおさえながら、終始ライバルに隙を見せずに店から出た。出たら駅まで走った。

 

 さすがにCDとは違いその場で使ってみることはできないので、家に帰って着替える。まずは「ジュンヤワタナベ マン / ガーデンTシャツ」から。

 

ジュンヤワタナベ・ガーデナーTシャツを着る

 

 ぼくは「ガーデナー」となった。感動した。あのエッセイを書いてから、ずっとこんな服が欲しかった。

 

 そのうえに「コム・デ・ギャルソン オム / ピンクカーディガン」を羽織ってみようと思った。合うかどうかわからないが、ともに同じ「思想」を持つものならば、マッチするはずだ。

 

ジュンヤTシャツ+ギャルソンカーディガン

 

 うん、いけるんじゃないか。前を閉じたり開いたり。ガーデナーの顔が見え隠れするのが愛おしい。「ガーデナー」と「ギャルソン」を同時に出した『ワークウェア考』の“先見性”に驚くばかり。この組み合わせで着てみて、自分の書いたものの本質が、実感としてつかめてきた。

 

 ここで『ワークウェア考』の流れをなぞるように、ステファノベーメルを身につけてみたらどうだろう。もちろん、ぼくはステファノの靴を買う余裕などまだないが、光世さんからステファノが試作品としてつくった鞄をいただいていた。ぼくが毎日、肌身離さず大事に携えているのは、この鞄である。ステファノとは一度も会えなかったが、この鞄を光世さんから授かって以来、どこへ行っても一人でないような気がして、寂しさが消えた。この鞄はぼくの人生に寄り添うものであり、さめ子さんが描いてくれた別冊スクラップブックのテーマイラストのぼくも、その鞄をしっかりと肩にかけている。

 

ジュンヤTシャツ+ギャルソンカーディガン+ステファノ鞄

 

 良い。「自由」を感じる。ロイドフットウェアも履いて、すべてがつながってきた。ぼくは『ワークウェア考』の終わりに、パリの「コム・デ・ギャルソンフリーク」の男性がステファノベーメルの靴を履いている写真を見て、“時代や歴史の文脈を越えても共鳴し合う「自由」があることを、確かに教えてくれているようだった”と綴ったが、その「自由」を今、ここで体験している。味わってはじめて、エッセイを諦めないで良かったとも思った。この「自由の風」を身近なところでもっと吹かせたい。そうしたら、実存を取り巻く“不条理”を押し返し、生き生きと輝き始める仲間が増えてくるのではないだろうか。

 

 何事も、体験しないことには、言葉にならない。ぼくは自分で書いた文章に嘘をつかないためにも、そして間違いではないと確信するためにも、コム・デ・ギャルソンにチャレンジし、ここに述べたような結び方で、言葉を受肉させてみた。いくら“安い古着”とはいえそれなりの値はするわけで、再びクレジットでぎりぎりの返済である。でも、これでぼくも「自由」になれたし、また新しい「夏の着物」を配れたらと――。

 

 ぼくの「仕事」の一つは、こんなふうに脱就活から眺められる地平を、精神的、金銭的な限界も含めて可視化していくことである。あらゆる限界のなかで“豊かさ”を求め、きちんと実現させていく過程を見せること。DigiFiのヘッドホンアンプを買った友人は、“いいヘッドホンもほしくなるね”と語った。ぼくが可視化、可視化と日々言っているのも、そんな「散種」を志しているから。人物の“完成形”だけを見せるのはなんだか腑に落ちない。自らの成長を記すことで、他者が利用できそうな生の形式を少しでも蒔いていく。その軌跡は一種の教養小説(ビルドゥングスロマン)とも呼べ、 “町に出ることはビルドゥングスロマンを描くことだ”と宣言してもいい。

 

 コム・デ・ギャルソンを分析したり、批評したりする文章は数多くある。でもぼくが興味があり、かつ現在必要だと思うのは高みからの「評論」ではなく体を張った「教養小説」であり、今回も“買ってみた”という切り口で言葉を紡いできた。今後も「言葉」と「実践」が交わる舞台に立ち、「可視化」と「散種」のエッセイを目指してゆこう。

 

フレッドペリーポロシャツ

 

(フレッドペリーのポロシャツを着て。次の歩みはどこへ!)