『シーシュポスとベッポとボブ・ディラン』

201306/07

 

 「シーシュポスの神話」というものがある。若き日のアルベール・カミュが「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学上の根本問題に答えることなのである」と書き出す同名のエッセイでよく知られている。そこでは大きな岩を山頂まで運ぶも、その直後にまた転がり落ちてしまう罪が描かれている。押し上げては押し返されることの繰り返し。人の苦しみの根底にはおそらくこの種の“不条理”があり、ぼくたちは「岩転がしの神話」を生きているのではないかとたまに思う。

 

カミュ『シーシュポスの神話』

 

 仕事が苦しい、先が見えない、生の実感がない、世代感覚として見受けられるこういった気持ちは、「シーシュポスの苦しみ」を想起させる。たとえ収入や安定、ブランド力を備えた人であっても、岩を運んでは降ろす苦悶の表情を浮かべていることがある。(TwitterやfacebookなどのSNSをのぞけば、会社の大きさと個人の幸福度が比例関係にないことがすぐに発見できる。)この“不条理な労働”は“ルーティンワーク”とも言えるだろうし、流行りの言葉を使えば “社畜”とも表現できるだろう。そして突きつめれば、いつしかただ無力感だけを学びとり、思考や行動が出口のない回路に閉じ込められてしまう“学習性無力”の状態こそ、不条理が人間に課した罪のかたちなのかもしれない。

 

 もちろんぼくも、岩を何度も何度も押し上げているような不条理感に苛まれることがある。その「岩」を「夢」と置き換えたなら、膨らめば膨らむほど重くなる。いつか山頂にとどまってほしい。そんな望みを抱きつつ、また目の前の岩を運んでいく。この日々に終わりが来るのだろうか。これはもう、祈るしかない。でも、なにに対して?

 

 サン=テグジュペリは言う。「人類が最後にかかるのは希望という病気である」と。またカフカは言う。「地上的な希望はとことんまで打ちのめされねばならぬ。そのときだけひとは真の希望で自分自身を救うことができる」と。“地上的ではない真の希望”とはなんだろう?ぼくはまだその対象を知らないでいる。いや、“空を飛ばずにぎりぎりのところで地に足をつけていたい”という思いが、それを見させないようにしているのだ。

 

 シーシュポスが「希望」を持つことは確かに苦しみをもたらすだろう。彼はあくまで冷徹な目で神を“見下し”、不条理を把握しながらも「反抗」を貫く姿勢において“自由”になれる。“地上的な明晰さ”を“超越的な対象”に対置させることをカミュはあくまで説くわけだが、これは果たして“救済”たりえるだろうか。またシーシュポスが「無力」を学習しないでいられる保証はどこにあるのだろうか?

 

ミヒャエル・エンデ『モモ』

 

 「シーシュポスの苦しみ」を考える一方で、ぼくはミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる道路掃除夫ベッポの姿を思い浮かべる。とくに、モモとの会話であらわれるこのベッポを。

 

「なあ、モモ、」とベッポはたとえばこんなふうにはじめます。「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。(中略)そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。」

 

「ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」

 

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

 

「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。(中略)ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない。」

 

 最後にベッポは改めて言う。「これがだいじなんだ。」

 

 シーシュポスからベッポへ、不条理に対する信仰の問題とからめて、話をつなげてみる。「道路」は明らかに「人生」の比喩だろう。ぼくはそれが“心配”でたまらないし、いつみても残りの“道路”が長く見える。とても「反抗」だけで踏破できるとは思えない。

 

 “道路”では「反抗」とともに「信仰」が必要となってくるだろう。しかし「神」(または絶対的な主義・思想)を掲げないことはカミュと立場を同じくしたい。ベッポの言葉はその間の架け橋となる。ベッポに信仰があるとすれば「汚れた道路を目の前に、きれいになった道路を後ろにして、進んでいく」ことだ。ここには「反抗」もなければ「無力」もない。しかし人間の実存を導くなにかがある。

 

 これが“信仰”かどうかわからないが、岩を運んでは降ろす不条理に対しては、ぼくは今のところ掃除夫ベッポの姿勢で向き合っていきたい。つぎのひと掃きのことだけを考えるように、つぎのひと仕事をこなし、つぎの一文を紡いで生きる。そして「救い」は“気づいたとき”にあったらいいな、と。それは「これから先の道」ではなく「きれいになった道」を振り返ってみたとき、きらりと落ちているものかもしれない。その可能性を少しでも広げるべく、毎日、毎日、ひたすら掃きつづけることだ。

 

『追憶のハイウェイ61』

 

 “繰り返し”を恐れずに、同じフレーズを高らかに歌い上げる者もいる。ボブ・ディランのつくる曲の数々は、岩を上げては降ろすような形式をとっている。《Blowin’ in the Wind》(風に吹かれて)、《A Hard Rain’s a-Gonna Fall》(はげしい雨が降る)、《Mr. Tambourine Man》(ミスター・タンブリン・マン)などの代表的な楽曲をピックアップしてみるだけでも、ただただ、反復するメロディラインがうかがえる。とくに初期のフォークソングは、神々への「コールアンドレスポンス」を行っているようにも聴こえる。呼びかけては(押し上げては)、応答する(押し返される)、それが退屈や苦痛にはならずに、不思議と心地よいリズムを刻む。

 

 ベッポの語る“たのしさ”とはこれではないか。ベッポの「つぎのひと掃き」が、ディランにとっての「つぎのひと弾き」であり、“不条理な運命”を受け入れてはいても、そこから溢れでる“人間の勝機”(たのしさ)が垣間見られる。それは反復していくうちに起こるズレ、そしてズレを重ねることで徐々に開かれていく生の快感だ。つまり、ひと掃き、ひと弾きの総和は、予定されていた「全体」を超える。だから「どうやってやりとげたかは、じぶんでもわからんし、息もきれてない」ということになる。反復しているのは行為ではなく、わずかにズレていく差異だ。差異が反復して、生は予期せぬ方向へ転じていく。「岩を転がす不条理」に賭けるべきは、「全体が別のものに生成変化するまでに繰り返す勇気」ではないだろうか。

 

 ぼくはディランの《Desolation Row》(廃墟の街)を聴くたびに、そんな反復から編み出される「生の逸脱(出口)」を感じる。10分を超えるこの大作は、さまざま登場人物が現れては消え(廃墟の街を掃くシンデレラや、廃墟の街へ行き罰せられるカサノバなどが出てくる)、幻想的な世界のなかで、ひたすら同じ旋律が唱えられる。確かに歌詞は一番、二番と数えられるが、聴き終えて(歌い終えて)みると、行数に還元できない世界が生じている。1+1が2にならない世界、とでもいったらよいだろうか。重要なのは、それが「繰り返し」から生まれていることであり、“不条理”の隙をついている点にある。

 

 ディランが長時間かけて《Desolation Row》を歌っていく姿は、祈るようで、願うようで、まさに“信仰”に近い魂を感じる。またそれを受けて共鳴するぼくの魂から、自分なりの “信仰のかけら”を拾い集めているところだ。

 

 シーシュポスの「反抗」から、ベッポの「信仰」へ、そしてディランの「歌唱」へと不条理のメロディは流れてきた。今は「なにに祈るか」ではなく「祈りを感じる歌声」に耳を澄ましていこうと思う。それだけでも、だいぶ救われる心境になる。

 

 最後に、この《Desolation Row》が収録されたアルバムは『追憶のハイウェイ61』であり、その冒頭曲があの《Like a Rolling Stone》となっている。――“どんな気がする? 転がる石のようなことは”と繰り返されるサビに、シーシュポスの神話から始まる信仰のかけらをもって、いつか逸脱する生の姿に望みをかけて、転がりつづけていこうと誓おう。いつもきれいになった“道路”を背にしながら。