第3回別冊スクラップブック『運命の足音とシカミミの靴』

201304/30

 

 V-MODAヘッドホンの分割払いが済み、真に自分のものとなった音とともに一息ついていたころ、菩提寺医師から「はい」と一枚の紙切れを手渡された。

・Bass ローファー Weejuns(USA)
・Clarks ワラビー Wallabee(UK)
・ロイドフットウェア(UK)
・ゴロー(巣鴨)
・オールデン(USA)
・…

 

 見るとこのように箇条書きされており、下には「手入れ育ちが楽しめるのは…」「ブランドの歴史は…」などと番号を振られた簡単な注釈が記されている。ぼくには馴染みのない言葉ばかりだ。聞けばこれらはどれも靴のメーカーやその種類だという。先生はパソコンの画面と向き合いながら、ネットでわかりうる範囲の値段を調べては、ぼくに次々と伝えてくるのであった。

 

 ちょっと待った!と、心のなかで叫んだ。文字通り「心の準備」ができていない。靴か、靴なのか、と意味もなくリフレインしていた。ぼくは靴にはまったく無関心であるといってもいい。高校のころも、大学のころも、そして今も、たいていニューバランスのスニーカーで歩き回っている。そう、多くの人が通るであろう「革靴の道」を見事に迂回して生きてきた。“脱就活”というスーツを着る日々とは無縁な暮らしがそれに拍車をかけた。しかし一方で、そういう“散歩者”の自分にとっては、むしろ靴は生きる基本であることを頭の片隅では意識していた。おそらくお金との兼ね合いでいつも意識の底に追いやっていたのだろうが、ついに掘り起こされるときがきて、その葛藤にぼくはとまどっていたのだと思う。不安げな顔で手にしたメモ用紙の先には、先生のにこにこした表情があった。

 

 その日も先生はどこか楽しげだった。午前に先生と光世さんとぼくとである取材を済ませ、すっきりと晴れ上がった空の下、みなで乃木坂にいるという状況になった。加えて、光世さんは次の予定があるために、いったん抜けてしまった。つまり先生とぼくの二人が穏やかな春の町に残された。賽は投げられた。「見るだけ見てみよう」ということで、ぼくらの「靴の散歩」は始まった。

 

 まず表参道まで歩き、軽く食事をとった後、明治通り沿いにある服飾のお店に向かった。ここにはBassのローファーが置いてある。色は黒とバーガンディの二色で、値段は17,000円弱だった。アメリカのローファーの古典というだけあり、無駄のない安定感とかっこよさに惚れた。見るからに履きやすそうだ。しかし、履かなかった。この時点のぼくの頭は一万円台半ばの靴を「高い」の枠組みに自動的に振り分けていた。このことからも、ぼくがいかに靴に無頓着であったかがわかるだろう。

 

 次に先生が案内してくれたのは、表参道のきらびやかな大通りにあるClarksのショップである。ここの靴は感性を直撃した。スニーカーに親しんできたぼくは、Clarksのつくるカジュアルで可愛らしい靴が大好きなのである。スエードでやさしく包まれたワラビーに、足を入れてみたいと思った。でも入れなかった。なにしろ値札には22,000円と表記されているのだ。(繰り返すがぼくは靴をなにも知らない。)今のぼくにはだいたい“一万円半ばを過ぎたらなにもかも一緒”という力学が存在し、二万円を超えたら迷う間もなく強制排除の力が働く。結局、その場を数分にして立ち去ってしまった。

 

 そもそも表参道を歩くこと自体、身の丈に合わない気がして落ち着かなかった。汗をかかせていたのは初夏のような陽気だけではない。先生の後について色んな店に入っては、目をキョロキョロさせて、歩みを進めていった。

 

 青山通りを渡り、骨董通りに移る。気づくと「町の奥地」とでも言うべき小路に足を踏み入れていた。さきほどまでの賑やかさとはうってかわって、辺りはひっそりと静まり返っている。しばらく歩いて立ち止まった場所は、ロイドフットウェアの店だった。道路に面したショーケースのなかには高級な靴が展示されている。(ある一定額を超えるとすべて「高い」の言葉に収められるように、靴を表現する言葉も「高級な」で片づけられるようになる。)店は15時からで、訪れたときにはまだ開いてなかった。先生は「どうする?」と聞く。どうするもなにもない。3万円とか7万円とかの靴を目にして、選択の余地はない。「戻りましょう。」とぼくは言った。先生は名残惜しそうに近くにあるオールデンの靴屋にぼくを連れて(もっと高い)、ひとまず表参道駅に踵を返すことにした。

 

 意図的だったのかどうかわからないが、最後に十万円代の靴など見せられると、17,000円という数字がかなり安く思えてくる。引き返す道すがら、ぼくはBassのローファーを買うことに決めていた。人の思考の枠組みはかくも柔軟性に富んでいるが、恐ろしいといえば恐ろしい。駅構内のカフェで待ち合わせ、光世さんと合流する。今度は三人で町へ繰り出した。「見る」のではなく「買う」ための散歩である。最初にローファーを見た店に向かう前に、表参道の大通りから一本なかに入った道を歩き、レプリカジーンズをこしらえているアメカジの店に立ち寄ってみた。

 

 ぼくはシンプルで広がりを感じさせるアメカジ的なファッションがけっこう好きなのだが、なんとそこにBassのローファーが置いてあった。これは手間が省けるし運が良い、エッセイ的には偶然が引き寄せた運命として締められるかもと思った。だが、そう簡単にはこの散歩は終わらなかった。嬉々として試着してみるものの、どうもしっくりこない。ぼくは26.5cmか27cmのスニーカーを履いているが(実はこのことが尾を引いてくる)、それに見合うサイズが見つからないのだ。自分の足の大きさからすればだいたいアメリカのサイズで8や7.5であるはずなのだが、長さか幅のどちらかが合わず、いらだたしい。これでいいかな、と妥協すべきものがあったが、菩提寺医師が合わない靴は絶対に買ってはいけないというので、しぶしぶ諦めた。(この言葉の大切さも後でわかる。)やはり当初の予定通り、最初に見かけた店で買うことにした。

 

 ところが、そこでもぼくのサイズがなかったのである。前の店のフィット感から7を探し求めていたが、「8以上しか置いてないんです」と言われてしまった。買おうと決めたのに買えない。これは悔しい。どこか「ヘッドホン散歩」の展開と似ているが、この種の悔しさは人の購買力を促す。自分でも驚いたが、「じゃあロイドに行ってみよう」という先生と光世さんの提案に、潔く同意してしまった。よく考えればなにか飛び越え過ぎである。しかし、みんなそうだ、そうだという感じで、仲良く青山に向かって歩き出した。

 

 実は先生は最初からロイドフットウェアを薦めていた。それには靴の質や製法(英国ノーザンプトン製のグッドイヤーウェルテッド製法)の他にも理由があり、「フィッティング」というものをしてくれるからだという。お店の人が一人ひとりの足を見て、それに合う靴を選んでくれる。(もっと言うと「足に合わない靴は売らない」としている。)これはかえってぼくを不安にさせた。そんな経験ははじめてだし、自分の性格からして緊張するに違いない。店員さんとうまくしゃべれるのか。職業を聞かれたらなんと答えればいいのか。靴そのものよりも、そういうしょうもない考えでおびえていた。先生に心配を打ち明けてみると「それは無職」と切り返してきて、ぼくを笑わせた。果たしてそんな人に靴を売ってくれるのだろうか。

 

 そうこうしているうちに、ロイドフットウェア青山店に着いた。お昼に来たときは「ここに来るのは何年後になるだろう」と思って見ていたが、数時間後には再び同じ場所にいた。ぼくは予想にたがわず全身をこわばらせロボットみたいになってしまった。しかし、そこではその緊張を凌駕する驚きが待っていた。

 

 小さな敷地に厳選された美しい靴が並び、お店の人が一人、お客さんの相手をしている。まさに専門店。調度や内装はイギリスで統一されている。ただ、なぜかブルースが流れており、その意外さがぼくを少しなごませた。

 

 前のお客さんが帰ってぼくの順番がきた。ついに「フィッティング」だ。靴の希望を告げてから椅子に腰かけ、足元の台に片足を乗せる。その前に、店員さんは立っているときのぼくの靴を見て、「26cmだね」と言って、すでに在庫を探していた。一瞬なにが起きたかわからなかった。どうして一目見ただけでサイズがわかるのだろう。しかもぼくの足はそんなに小さくないはずだ。そんな疑問をじっくり考える間もなく、店員さんが見当をつけた靴を持ってくる。

 

 細かいことだが、箱から靴を取り出すときの動作もすごかった。手のひらに靴を乗せ、手首をひゅいっと返す。靴は一回転してソールを下に手にすとんと落ちる。まるで曲芸のようだ。そしてまたひもを通す作業の速いこと。しゅっ、しゅっとまたたく間にひもは穴を往復し、「履ける靴」の形になっていく。箱を開けたところから、あわわ、あわわと息をのんでいたが、同じ調子で言われるがままに足を入れてみる。

 

 店員さんは靴全体を手で触り、少し大きいという。ぼくの足は26cmよりもっと小さいのか!これは衝撃的な事実であり、さらにそれに続く店員さんの発言がぼくを戦慄させた。

 

「足の裏のアーチ部分がつぶれていて、足の指の骨が広がっている。指の形も先が丸く出っ張るようになっている。それに対し、踵のほうは細いから、ラストとサイズの関係が難しい。」

 

 靴下をはいているのに、指の形状までわかるとは…。そしてぼくはまさしく「偏平足」なのである。幼いころからサッカー教室の先生などに指摘されていた。しかしそれが意味するものは、今日まで知らないでいた。あれはアーチがつぶれることによって、指の骨が広がっていくものなのか。昔から「偏平足は足が遅い」と言われ、でも自分は中学の陸上部(短距離)で好成績を残していたから関係ないといい気になっていたが、「足が速い・遅い」の外で大きな問題が生じつつあったわけだ。店員さんはこう説明する。

 

「足のサイズより大きな靴を履いていると、骨がどんどん横に広がっていってしまう。速く歩けば筋肉はつくが、骨の広がりを助長する。ゆっくりと歩いてください。筋肉をつけるか、形を保つか、どっちがいいとは言えませんが。」

 

 なるほど、その通りだ。事実、ぼくは自分の足よりかなり大きいスニーカーを履いていたのだから。偏平足だとどうしても幅の広い靴を求めがちだが、それがまた悪循環を生み出してしまう。店員さんの見立てはこの足の状態に符合する。

 

 足の先が幅広く、踵部分が狭いというぼくの足型だと、ラストとサイズがぴったしでも、足を入れづらいというやっかいなことになる。ちょうど良いと思われる一つサイズの小さい靴を持ってきてもらったのだが、入れるときにキツイと感じる。しかしある点を越えると、すぽっと収まる。おお、と唸った。これだ。店員さんはまた確かめる。

 

「右はちょうど良くても、左の踵部分が若干余りますね。O脚で、とくに左足の膝が曲がっているからこうなります。」

 

 と、とくに膝を注視することもなく言うのだ。すごい。左足はぼくのウィークポイントで、陸上部時代に怪我をする足はいつも左足と決まっていた。やはり左のほうが歪んでいるのだ。それが足の形からわかる。

 

 このように驚きと確認を重ね、これなら良いだろうという靴に巡り会う。はじめはプレーントゥの黒い革靴を望んでいたのだが、在庫やフィッティングの関係で無理なことが判明し、最終的にはメダリオンが施されたブラウンの靴が足元に置かれる。すぽっと入るこの靴のサイズは7。自分の思い込んでいたサイズより、だいぶ小さい。先生と光世さんはとても似合っているという。運命に導かれるように、この靴に決めた。

 

ロイド2

 

 値段は32,000円だった。それでも買おうと思った。一日でのこの成長ぶりには目を丸くされるかもしれない。でも今ならわかるが、自分の足のクセを知らずに靴を求めようとしていたのには、無理があった。この足といいかげんな理解では、自分に合う靴が見つかるはずもない。フィッティングで24歳にしてはじめて自分の足の大きさを“発見”できたこと、大きさのみならず日々自分を支える足そのものについて理解できたこと、これらの出会いを加味すれば、この値段でこの靴を入手できたのは「安い」と言えるだろう。足は取り換えがきかない。足を守る価格ならば、なおさら価値のある買い物だった。また光世さんからは手入れしながら二十年くらい履き続けている靴のことを知らされた。ぼくも今日、そんな二十年へ向けた第一歩を踏み出せたなら、これはお買い得だと思う。

 

 散歩にはやはり色んな人がいるのが良い。散歩に連れ添ってくれた菩提寺さんたちはもちろんのこと、ロイドフットウェアの店でぼくの足と向き合ってくれた店員さんの存在を思うに、ものをつくる人(あるいは機械)と買い手の間に、適切なものを適切な人へ贈り届ける「商人」がいることの重要性に気づかされる。流通におけるこの中間を抜いて、なにがなんでも安く直に買うのがいいとは限らない。ぼくが体験したようにその間で価値ある良い仕事をしている人々(石田梅岩が説いたような商人)が確かにいる。これからはそんな彼らを応援していきたい。

 

 表参道と青山を何度も往復した先生は、一日の終わりにはしおしおになっていた。逆にぼくは心許なげで弱々しい顔からやる気に満ちた強気の顔になっていて、それを申し訳なく感じていた。今回の散歩について改めてお礼を伝えるとともに、また次の“目論み”を楽しみながら待っていたい。今はただ“ゆっくり”と歩いていよう。

 

ロイド箱

 

ロイド1

 

シカミミの靴