第1回別冊スクラップブック『散歩学概論―町は今すぐ劇場になりたがっている―』

201303/26

 

 クラフトが根づき(第4回スクラップブック参照)、人々の間に全人格とコミュニケーションを担った仕事が回り始めるには、それを受け容れる「血の通った町」が必要となってくる。売り物は「値札がついた商品」という形式に流されず、その裏にある出会いや交流のプロセスがしっかりと刻み込まれるような町づくり。そのためにはまず、町に張り巡らされる道路は目的地から目的地へ伸びる通路ではなく、それ自体が喜びを生み出す空間だと捉えてみたい。ちょうど山登りの楽しさが歩く過程に見いだされ、ヘリコプターで山頂に飛んで行っても意味がないように、商店の存在や町の散策もただ効率化を目指して進むものではない。ふらふらと、あちこちに顔を出すことによって、散歩という行為は町に栄養(交流とお金)を運ぶ血液のような役割を果たしている。

 

 「別冊スクラップブック」の道を照らす導入として、初回は“町の血液”の流れを促す仕組みについて考えてみたい。つまり今後の歩みの布石となるような「概論的な散歩」をしてみよう。

 

 まず前提となるのは、立ち寄ろうとする物理的な空間への見方を広げてみることだ。例えば書店やCDショップといったよくあるお店も、「商品を陳列する場」のみならず、得意の商品を通して町に設けられた「人と文化が出会う場」として覗いてみたい。そこはどんな本が置かれ、どんな音楽がかけられ、どう人に接してこようとしているのか。逆にネット通販の特徴は「文化の口実をとった商品」が大量に出回っているに過ぎないといえる。なるほど空間を持った店舗には当然、制約がある。しかし制約があるからこそ、そこに「何を置くか」や「どう見せるか」といった人間の意志や工夫が生まれてくるのであり、来店者が売り物を手に取ってみせたとき、売り手と買い手の間に温かで刺激的な交流が実現しているのだ。

 

 また縛りが引き出す人間の創意は、真っ白で何もないところからものを生み出すことだけが自由や創造だという考え方を覆す。そもそも人間がつくり出すものは人間である限りの類型やパターンから逃れることはできない。それでも落胆することはないと思うのは、つくられたものを組み合わせたりセレクトしたりすることも立派な創造的行為であり、さらにいえば限られた材料や手段でも組み合わせ自体は目的に応じて限りなく開かれていることに、人間としての揺るぎない自由を感じるからだ。これは実は作り手においても同じことで、音楽を例にとればレコーディングにおけるテープ編集などは録音した素材をどう切り貼りするかにその人の独自性が発揮されている。決して演奏する行為のみに創造性が宿っているわけでない。

 

 特に古本屋や中古CD店といった空間はそのような「人間の自由」を感じさせるところが少なくなく、収集の痕跡と限られた敷地面積が肌に馴染んで心地よい。(今後、実際にさまざまな場所を巡って紹介していく予定です。)この種の店舗は一つの世界観として有機的な体系を築いており、そこに入った者は一人の人間と向き合っているかのような体験をする。いや、一人の人間を入口に感性や思考の限りない広がりに足を踏み入れていると表した方がいい。この繋がり、この連関こそがAmazonの「おすすめ商品」には表示できない領域である。人間のなかで深みを増していく力動的な発展の軌跡は、データの集積である統計では決して描き出せない。

 

 よくお店に足を運ぶ利点として売り物との偶然の出会いが挙げられるが、それだけでは不十分だ。その点ではAmazonの膨大なストックの方が「偶然」に溢れているといえよう。ぼくたちの心に潜むまだ見ぬ世界に気づかせてくれるような偶然とは、思索や経験を重ねていった誰かの道に自分の歩みがふと合わさるときに訪れる。例えばぼくは長年探している本はネット通販ではあえて買わないのだが、それはその本が見つかるような古本屋であれば、その隣にある本もまた店主の歩みから落とされた魅力的な一冊である可能性が高く、自分の次なる一歩を引き出す道標となるかもしれないからだ。お店の持つ“内面性”と自分の内面性とが町の空間において静かに出会うとき、そのどちらの世界にも還元できない新たな化学反応が起こる。

 

 さて、ここまで散歩してきて少し疲れたのでカフェに入るとしよう。席につき、コーヒーを飲みながら、町で入手した品物にさっそく触れてみる。ここでポータブルCDプレーヤーを鞄に忍ばせ持ち歩いていれば、すぐにこうやってカフェのなかで聴くことができる。出会いはすぐに確かめたくなるものだ。これは最新のMP3プレーヤーではできないことで、時代に取り残されたレコードがのちにDJ文化を切り開いたように、古いメディアが町と町歩きに活力を与える可能性があるかもしれない。歩いて買って町で味わう。この循環を生み出す「携帯メディア」と「一息つける空間」は、文字通り町における呼吸の作用に等しい。

 

 そのような“町の息”を一所に集めたのが、多くの人が寄り集う「劇場空間」だろう。そこは存在として芸術の涵養や人々の出会いと創造を担っている。町の一角で購入したばかりのジャズなど聴いていると、かつてアメリカのハーレム地区にあった「ミントンズ・プレイハウス」が頭をよぎる。ここは1940年代のはじめ、若き日のセロニアス・モンク、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカーらが演奏していたことで知られるクラブだ。彼らは生活のための演奏が終わると、仲間たちで集まってジャム・セッションを行い、互いに新しい音を出し合って来るべきジャズを模索していた。これがビバップを嚆矢とするモダン・ジャズの形成に大きな影響を与えたと言われている。

 

 このクラブをジャズの歴史に位置づけるだけでなく、「労働」の後の「ものづくり」を可能にした場所として光を当ててみよう。セッションしようと思ってもセッションする場がなければ始まらない。逆に集える場所の存在が自然とセッションを生み、人の想像力に火をつけ、文化形成までにいたったと考えられる。戦後の日本の文化史を振り返ってみても、ジャンルを超えた交流で前衛芸術を牽引した「草月アートセンター」や、喫茶店という場から多くの若い才能を開花させた「風月堂」など、多くは空間が文化を語っている。文化的かつ経済的な胎動が聞こえる “劇的な空間”は、町に鼓動を刻む心臓と呼んでも過言ではない。

 

 ここで当初の問題意識にも戻ってきた。町とものづくり、そして町と文化の繋がりは本来切っても切り離せない関係にある。リヴァプールといったらビートルズ、カンタベリーといったらソフトマシーンと町の名前と一緒に語られるように、文化・芸術は個人が享受するもの、国が輸出するものというより、人々が生きる町の空気を吸って共同的に育まれてきた。その空気を膨らませ、町の隅々まで行き渡らせるには、町の中心に偶然・交流・創造がクロスする“劇的な空間”を置くのが望ましい。人間は自然に回収できない余剰を抱えたものであり、人間疎外は自然に帰ることではなく、むしろその余剰を人工的な文化として導くことで回復されてくるのではないだろうか。その装置が今はほとんど失われ、町は窒息状態に陥っている。

 

 ここまで町の姿を血液、呼吸、心臓と人体になぞらえてみてきたが、それにならって最後にこう表現したい。「町は今すぐ劇場になりたがっている」のだと。

 

別冊スクラップブック_イラストA

イラスト さめ子